太古から民衆がつくった塩の道(千国街道)は、平安後期から戦国時代までは豪族仁科氏の統治の道や軍道として整備され、江戸時代には松本藩によって整備・管理されました。 仁科の里は平安末期~鎌倉初期につくられた仁科氏の天正寺居館を中心とする古い城下町の遺構にいくつも集落が形成されてきました。近世には、八坂や生坂を経由して善光寺街道に連絡する道、美麻・小川を経由して戸隠顕光寺や長野善光寺に向かう大町街道と連結していたため、交易の拠点として発達しました。


◆有力な中継拠点として発達した街◆

 
雨雪除けの幅広の庇が商店街の大通り沿いを覆う景観は昭和中期の遺産



▲借馬、木崎湖に向かう県道31号の下に旧街道は埋もれているか
 右端の桜並木が大黒天の境内との境界


▲大黒天横の追分交差点から南を眺める


▲大黒天の祠や女清水の井戸などが狭い境内にある


▲県道東脇の大黒町「ふれあい通り」の家並み


▲昭和期の造りの漆喰壁墓土蔵や店舗が保存されている一角


▲昭和期の賑わいの痕跡がわずかに残っている


▲大黒町から用水堰沿いに若一往時神社に向かう古い道


▲大黒町から九日町に向かう


▲県道沿いに保存されている蔵造り店舗
>

  太古から民衆がつくった塩の道(千国街道)は、平安後期から戦国時代までは豪族仁科氏の統治の道や軍道として利用され、江戸時代には松本藩によって整備・管理されました。
  大町一帯は、高瀬川や鹿島川の氾濫、浸食・堆積で形成された盆地(平坦地)なので、千国街道は水害からの安全のために、繰り返した氾濫つくられた微高地(自然堤防)上を通っていたと見られます。だいたい県道31号に沿っているようです。


狭い境内に並ぶ祠はともに大黒天を祀ったもの

  千国街道は、太古から民衆が歩くことで開拓した、日本海沿岸の糸魚川と信州内陸部を結ぶ街道です。江戸時代になって主に松本藩が街道に制定し、仁科の里の大町は最も有力な宿駅になりました。
  仁科の里は、中世には仁科氏の天正寺居館を中心として形成された古い城下町で、その遺構には戦国末期から江戸時代にはいくつも集落が形成されていました。そして、東に向かっては、八坂や生坂を経由して善光寺街道に連絡する道が通じ、北東に向かっては、美麻・小川を経由して戸隠顕光寺や長野善光寺に向かう大町街道と連結していたため、荷駄の運搬や交易の拠点として発達することになりました。
  やがてこの一帯の集落では毎月定期市が開かれ、持ち回りでめぐることになったようです。今でも三日町、五日町、六日町、八日町、九日町、十日町という地籍あるいは通称地名が残っています。ただし、集落の位置はバラバラ無秩序で、市街の北東の郊外に三日町、街の西端に十日町があって、南端に五日町、その北に八日町、九日町と続き、その西隣が六日町という具合です。

  もう十年ほど前、北原町の古老からこんな話をうかがいました。
  昭和前期までは、北原町から若一往時神社のあたりまでが微高地(やや高い丘)で、高瀬川があふれても沈まず水の上に地面が顔を出していた。だから平安時代から室町時代、この丘の筋に沿って道がつくられ集落が発達したのだ、と。


県道の西脇にある風致区画「こまくさ広場」


広場の土蔵の裏手にあっる水田跡の草地

  さて今回は、大黒町の追分から「ふれあい通り」に沿って九日町の辺りまで散策探索することにします。
  ところで、借馬の大黒天像から追分跡の間は、耕地整理や道路整備によって道が直線的になったため、旧街道の痕跡はまったく見つかりません。純然たる田園地帯でしたから、往時は路面の起伏や曲りがあったはずなのですが。
  往時、追分から八日町までは街道沿いに集落が続いていたそうなので、道筋はほぼ往時の名残をとどめていると見られます。しかし、道路は拡幅され。昭和期には商店街が発達したので、往時の痕跡はめったに見つかりません。
  そこで、昭和期の豊かな地方都市の面影を探索することにしましょう。


昭和期の商店街のイメイジの街灯

|  前の記事に戻る  ||  次の記事に進む  |