大町宿はT国街道の中心的な職場として栄え、荷駄輸送と継立てを担う問屋、塩や干物などの海産物を仲買する問屋があったそうです。 街道沿いの九日町、上下の仲町、八日町、高見町、六日町、五日町には伝馬屋敷が並び、輪番持ち回りで荷駄輸送を担っていました。松本藩の陣屋が置かれ、屋敷地内に籾蔵や塩蔵、麻蔵が設けられていました。南北両端の宿場の出入り口にに桝形を設け、南の入口には木戸があったそうです。


◆昭和期の商店街の面影が残る街並み◆

 
街道表通りの裏手に入ると小路に面して酒蔵などの醸造業者の長屋蔵の列が残っている



▲地ビールの醸造業のレストラン「北アルプスブルワリー」


▲有名な地酒蔵元「市野屋」:裏手に古くからの醸造蔵がある

▲裏手の蔵に続く通路


▲瓦葺きの高麗門の奥には小さいが端正な和風提案がある


▲古い店舗を活用した食事処「創舎わちがい」


▲十字路を東に曲がると歴史博物館「ちょうじや」の前に


▲「ちょうじや」の向かい側には店舗が並ぶ


▲この道(博物館通り)は東山の麓まで続いている


▲裏町通りの小路をめぐってみると、古い土蔵に出会う


▲細い小路の両脇に大正~昭和期の土蔵や担保が並ぶ
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  北アルプスと東山という東西の山脈に挟まれた盆地に位置する大町は水が豊富です。女清水と呼ばれる水場は、木崎湖東岸の居谷里水系に属す湧き水で、男清水は鹿島川系の湧き水だそうです。
  江戸時代には街集落が拡大して住民人口も増えたので、千国街道の中ほどを北から南に流れる宿場用水を通しました。用水は町川と呼ばれたそうです。女清水と男清水の伝説から推測すると、上記の居谷里水系――現在は農具川という用水路堰になっている――と鹿島川の両方から取水して宿場用水に流したようです。
  ともに水量がきわめて豊富なので、街道の中ほどを流れる用水は町川と呼ばれるほど幅が広かったと見られます。1間くらいはあったのではないでしょうか。街区ごとに木橋がかけられていたそうです。


長椅子に座って湧き水を一杯飲んでみよう

  というわけで、大町市街の旧街道の幅が広いのは、近代に拡幅したというよりも、中央を町川が流れていたため、街道両側の家並みの間が――6間くらいか――離れていたのではないでしょうか。
  河畔には並木や植栽があって清冽な水が流れる街並みはたいそう美しかったはずです。おそらく大黒町で用水は何筋かに分水されて裏町を南北に流れていたでしょう。用紙の畔には洗い場あって、野菜などを洗っていたでしょう。
  町川は荷駄を運搬する牛や馬に飲み水も提供していたはずで、町川から水を引いた池のような水飲み場が伝馬屋敷の前にあったのではないでしょうか。


酒造市野屋の裏手にある土蔵

  今回は、上仲町辺りから歩き始めて南に進み、八日町、下仲町、高見町、五日町を分ける十字路で東に曲がり博物館通りに入ります。この通りには、有力な塩問屋の「ちょうじや」の遺構があります。
  塩は松本藩が専売する大きな収入源でしたから、この塩を藩から買い取って仲卸する商業特権を与えられた「ちょうじや」は、巨額の上納金を運上する特権的な有力商人だったようです。
  そこから先の千国街道の道筋はどう続いていたのでしょうか。
  私は、「ちょうじや」の東側にある交差点で南に曲がり五日町ポケットパークに向かう道と、そのまま直進して東山の麓まで行って南に曲がる道とに分かれたのではないかと推定しています。東山山麓まで行く道は脇街道で、八坂村を経て善光寺道に連絡するとともに、高瀬川の氾濫に備えた河岸段丘上の道だったと見られます。
  そうだとすると、旧街道本道にはポケットパークの辺りまでに木戸があって、その南側に石垣で囲まれクランク状になっている桝形があったでしょう。
  その先の道筋は、大町警察署から500メートルくらい南に館之内城館跡に向かって河岸段丘をのぼっていったのではないでしょうか。なにしろダムなどの治水技術ががない時代には、高瀬川の氾濫の破壊力は恐ろしかったということです。


「ちょうじや」真向かいの石畳の小径

「ちょうじや」の裏手ぼ駐車場に向かう小径

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