旧美麻村の大町街道跡を探索する旅の2回目は、宮村から湯ノ海辺りまでを歩きます。
  化石燃料をもとにした電気や自動車などの近代的工業技術がなかった頃、山林資源に囲まれた山間の集落こそが豊かな生活の場だったのでしょう。ところが、現代では山間の集落はどんどん人口が減って消え去っています。人がいなくなり通らなくなると、道は自然林に戻り、痕跡はなくなっていきます。でも、見麻の旧街道沿いには往古の豊かな生活と文化の痕跡がかすかに残っているようです。


◆往古には豊かな生活文化があったのか◆

 
二重の水上神社の参道と大杉(推定樹齢750年)。背後に拝殿が見える。



▲旧街道沿いの集落にわずかに残る住戸


▲県道797号は旧街道を拡幅した舗装道路


▲棟側の開口部を広くした茅葺造りは養蚕向けか(今は無住)


▲近隣には住人がいる茅葺家屋もある


▲県道から神社に向かう参道の石段の上に古道が通っている


▲石垣壇上に置かれた水上神社の拝殿。唐破風向拝が印象的。


▲古道跡脇の斜面に並ぶ馬頭観音や庚申塔などの石仏


▲T字路辻脇には大黒天の碑が置かれている


▲湯ノ海の辻:かつてはここから東向きに皆街道が分岐していたらしいが、今は辿るべき痕跡は見つからない。


▲辻の脇に庚申塔や馬頭観音、双体道祖神などが並ぶ

  今回は宮村から二重地区を経て湯ノ海辺りまでを探索してみます。この辺りでは、すでに消滅して跡形もなくなった村落がいくつもあります。
  ところが、東と西を緩やかな尾根筋に囲まれたこの谷間は、古代から昭和中期までは、大きな河川の畔にある都市集落がある平坦地よりもよほどに豊かな生活の場だったようです。何よりも標高差のない穏やかな谷間を金熊川が流れていて、飲み水や稲作に必要な水を確保できていたのです。
  燃料でもあり、手工業の素材でもある木材、借財としての山菜などの森林資源に恵まれていたのです。
  そして、奈良時代から昭和中期まで、美麻から小川、鬼無里、戸隠にいたる一帯には麻(亜麻)が栽培され、上質の医療から日常用品まで貴重な繊維の原料となっていました。麻糸や麻布などの麻繊維は結構な金額で取引きされていて、山間の村人たちに恩恵をもたらしていたのです。


堂舎かと思って近づいたら物置だった

  美麻の宮村から二重、湯の海にかけての地区には中世の城館や砦の跡があり、地名としても下ノ関、中ノ関、上ノ関、元ノ関などの地名がありました。
  ということは、中世には領主の居館を中心とした城下街があって、相当の人口を擁した豊かな集落群があったと見られます。そして、大町から戸隠や長野に連絡する古道の要衝=中継地だったのです。領主は関所を設けて城下街への出入りや通過を規制したり通行料を課したりしたいたかもしれません。あるいは集落内での市・取引に集まる商人や旅人が古道を行き来していたのかもしれません。





八角絵巻堂は物語絵巻が八面に描かれている





耕作放棄地になった棚田が園地となっている

  さて、二重の宮村には水上神社という古い来歴がある社があります。創建は8世紀初期で、伝説では縄文時代から祀られてきたクニサヅチが祭神だそうです。
  神社から南側には鎌倉時代から仁科氏の支族、二重氏の居館と砦、城下街集落があったと伝えられています。県道497号から分岐して神社の境内に向かう小径が中世の古道跡ではないでしょうか。金熊川の流れを変え、背後の谷間から流れる沢を組み合わせて水堀(水濠)をつくってあったのかもしれません。

  神社から3キロメートルくらい北上すると湯ノ海という地区にいたります。ここは、80年以上前まで大町から小川村高府まで尾根伝いに往く峯街道への上り口のひとつがあったそうです。湯ノ海の集落から東にのぼっていったようですが、通る人が絶えた今では痕跡がなくなっているようです。
  県道31号は大町街道のうち、青具から土尻川(犀川の支流)の谷間に沿って小川村高府まで往く道筋ですが、土尻川の氾濫・水害の危険を避けるために峯街道を通る旅人が多かったのだそうです。

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