佐久甲州道高野宿の町割り図


『佐久町誌 歴史編(古代~中世)』p418の図版を編集して作成

■17世紀半ばから18世紀まで急成長した街集落■

  高野町村を含む佐久甲州道沿いの集落が成長し始めたのは、大坂の陣が終わってからだと見られます。甲斐徳川家の藩領となってから村落としての精度や仕組みが整ったようです。   1685年(貞享2年)の記録によると、高野町村の住戸数は145軒となっているそうです。そして1726年(享保11年)につくられた『御知行所高野町明細帳』によると住戸数は240軒、人口は828人となっているとか。40年ほどで集落が急速に成長したのです。
  同資料によると、職人は、大工・指物師・鍛冶屋・絵師・桶屋・紺屋・金具屋・屋根葺屋など36人で、商人は24人で扱う商品は茶・塩・酒・太物などとなっています。

  佐久甲州道と武州街道とが出会う地点なので、高野に停泊する旅の商人たちも多かったはずですが、旅籠の件数は不明です。
  そのほかに造り酒屋2軒、水車屋1軒、質屋4軒、医師2人などでした。
  240軒のうち本百姓が206軒で、水吞百姓が24軒ということで、住戸のほとんどが農業従事者だったようです。つまり、職人や商人でも農地を保有して農業を営んでいたことになります。商人や職人は兼業だったということです。
  村役人は、名主1人、組頭(与頭)3人、年寄12人となっていました。