佐久甲州道は、戦国時代の軍道の遺構を利用して自然発生的に形成され、街道沿いには天領が多かったため、変則的な形で街道の整備と宿駅の建設が進められたようです。 この街道を通って江戸まで参覲旅をする藩はなかったようで、各宿駅には本陣・脇本陣は設けられなかったようです。とはいえ、17世紀後半から18世紀はじめ頃になると商用旅や物流が盛んになったので、貨客輸送の継立てを担う問屋場が置かれるようになりました。 ◆南佐久地方の交通・交易の要衝だった◆ |
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![]() 間口が狭く奥行きが深い江戸時代の町割りは残っていないが、落ち着いた風情の昭和期の和風家屋が続く家並み。 |
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![]() ▲下畑から尾根裾を回り込んでやって来る旧街道遺構 ![]() ▲高野町の郊外、家並みがこの辺りから始まる ![]() ▲旧街道沿いに漆喰壁土蔵が残る豊かな農村風景 ![]() ▲旧街道が緩やかに曲がり、古い町並みの奥行き感を醸す ![]() ▲昭和期の穏やかな家並みが懐かしさを誘う 江戸時代の間口が狭く奥行きが深い宿場の町割り(敷地区画)の痕跡はどこにも残されていない。明治後期から昭和中期まで、住みやすい広い住宅を求めて、多くの住民は転居していったらしい。 その跡地を有力な商家や農家が買い入れて屋敷地を広げ、広壮な和風の家屋や店舗を建築したのだろう。 ![]() ▲旧陣屋跡の南側に残る茅葺屋根(今はトタン葺)の古民家 ![]() ▲旧陣屋跡は明治以降は町の中心部で、今は区民センター ![]() ▲往古は、間口が狭い町屋が並んでいたが、今は広い屋敷地。 ![]() ▲昭和期には繁盛した焦点だったらしい店舗家屋や主屋 |
◆天領から旗本領、ふたたび天領へ◆ 関ケ原での勝利の後、1605年頃から1615年まで、徳川幕府は5つの主要街道の伝馬制度と宿駅建設に力を入れました。ところが大坂の陣で豊臣家を滅ぼした後には、幕閣でその後の方針と権益・利権の配分をめぐって熾烈な権力闘争が展開されたようです。
ところが、水野家は幕府のなかでの地位を上昇させ、1777年(安永6年)には駿河沼津藩領主(大名)へと昇進して、南佐久郡領はなくなり、ふたたび幕府直轄地(天領)になりました。水野家の支配は半世紀余りで終わりました。 高野町が小規模ながら商業機能が集積した本格的な宿場街に成長するのはそれからです。ただし、その頃に幕府代官所陣屋はなくなり、水野家の代官所が設けられ、道中奉行よりも水野家の家政家産の統治事業として街道と宿場の管理がおこなわれるようになります。 佐久平は平安末期ないし鎌倉初期には水田開拓が本格的に展開してきた米どころですが、一方、武州や上州西部の山沿いには水田はさほど開かれてきませんでした。上記の道は佐久からこれらの地方に米を運び、さらに利根川水運を利用して江戸まで送る経路となりました。 |