上畑の諏訪社を中心とする神社の由緒来歴や畑大門という地籍名の起源を探る史料はまったくないようです。このあたりは上畑という通称の地名ですが、本来は畑だそうです。すると、大門といういう地名もまた古くからのものではないでしょうか。
  そして、ここは旧上畑宿集落の中心部です。古代から中世にかけて有力な密教寺院と一体化した神社があって、門前町といえるほどの都市的な集落があったのではないか、というのが勝手な当て推量です。


◆古代から中世の密教修験の拠点だったか◆

 
旧街道から大門地区の背後の尾根の上り口に「産土神」という扁額を掲げた大鳥居がある



▲大鳥居をくぐってから振り返って大門の家並みを見おろす


▲かつては桜並木があったが、今はわずか2本だけ残った老桜


▲護国神社の社殿にのぼる石段。往古、寺堂があったのかも。


▲護国神社の拝殿


▲岩壁の下の窪みに並ぶ境内社の社殿祠


▲岩壁の続きの先に諏訪社の拝殿・蓋殿


▲北に延びる尾根突端は展望台兼ねた伏見稲荷の境内


▲石段をのぼった尾根峰には稲荷社の石祠が祀られている


▲稜線上は登山道として整備されている


▲狭い尾根道は、往古、修行の道だったか


明神式鳥居の形からして諏訪社の鳥居だろう

  この一帯は、現在は上畑、中畑、下畑というように3つの地区に区分されていますが、古代から中世までは畑というひとつの地名でまとまっていたようです。
  呼び名が古代から「ハタ」だったとすると、古代の渡来人、秦族が開拓した土地だったのかもしれません。信州では、中世後期に秦姓から羽田姓に変えた氏族が多いのですが、秦氏にもいろいろ系統があるようで、同じ読み方で畑という姓を名乗り、開拓した土地にも畑という地名をつけたのかもしれません。
  その一族は開拓しながら移動を繰り返した人びとだったらしく、平安時代前期にはこの地を去ったのかもしれません。千曲川を下って上田小県地方に転進したのかもしれません。
  平安時代の中期に、秦氏が開拓した集落遺構と地形を好んだ真言密教系の僧・修験者たちが、新海三社神社と神宮寺がある田口からこの地にやって来て密教霊場を開いたのではないか、というのが私の空想です。
  ところで、佐久地方には諏訪社が多いのですが、これについては奈良時代から平安初期にかけて始原的な山岳修験者たちが諏訪信仰をもたらしたようです。おそらく諏訪湖畔(茅野)方面から蓼科山・北横岳の南側の谷間をたどり、八ケ岳を横切って佐久南部に到達したのではないでしょうか。これが諏訪信仰が広がっていくひとつ目の波です。
  次の大きな波は、鎌倉後期から室町~江戸初期にかけて、中山道(その土台となった古道)をつうじて和田峠を越えて依田窪・望月方面をつうじて佐久北部に到達した動きがあったと見られます。


岩棚を繋ぎながら進む諏訪社への参道


本殿の蓋殿と一体化した独特の造りの拝殿


蓋殿のなかに並ぶ変形春日造りの本殿群

  さて、大門地区には山裾の斜面を東から西にのぼる参道のような小径が通っています。佐久甲州道との辻から西の尾根を見上げると、段丘崖のとば口に石の大鳥居が建てられています。「産土神」という扁額が掲げられています。昭和末期から平成期にかけての建立のようです。
  扁額に特定の神社名を入れなかったのは、尾根中腹から稜線上にかけて主なものだけで護国社、諏訪社、伏見稲荷社の3つが置かれているからでしょう。これらの神社への共通の参道に置かれた大鳥居だからということです。
  ところが、ここは古来から密教霊場があって寺域と神域とが融合して一体化していた区域だからという事情もあるかもあしれません。


今は石祠だが、往古は木造社殿だったか

  諏訪社の社殿は切り立った岩壁(断崖)の下の岩棚にあるのですが、その隣、南西側の岩壁の下に窟屋のような窪みがあって、そこには古びた祠が数多く集められています――祭神名も記されず雑然と並んでいます。明治末期の祠堂合祀令によって上畑集落内に分散して祀られていた小さな社や祠をここに合祀したと見られます。
  とはいえ、この断崖下の窪みは、修験僧や山伏が結跏趺坐などの修行をおこなうには格好の場所です。ほかにも堂庵を構えるのに適した段郭や岩棚地形がいたるところに見られます。

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