自福寺は1701年に佐久甲州道の千曲川河畔にある宿場街、上畑村に創建されたそうです。ところが、1742年の大洪水によって村もろともに壊滅・流失し、その後、1775年に旧地の西方の山裾の高台に再建されました。
  高台は大門という由緒ありげな地籍です。山腹の諏訪大社にのぼる参道に大鳥居がある地区です。自福寺は真言宗の寺院ですが、本寺は新海三社神社の別当寺だった神宮寺で、諏訪大社と関連があるのです。


◆古代に創建された大寺院の末寺だった◆

 
自福寺の背後に迫る尾根は往古、山岳修験や密教修行の場があったのかもしれない



▲戌の満水の後、山際に再建荒れた佐久甲州道


▲旧街道脇の石垣が連なる高台に自福寺の境内がある


▲境内の本堂脇に並ぶ石仏や石塔


▲比較的に手狭な解題に再建された自福寺


▲寄棟茅葺造りの小ぢんまりした本道だけが残っている


▲対象~昭和初期に修繕・修復されたようだ


この大鳥居が地籍名の由来か

◆新興宿場街の出現と寺院の進出◆

  佐久甲州道沿いの集落が発展してやがて宿秋の扱いを受けるようになるのは、早くても17世紀半ば、本格的には18世紀はじめ頃だと見られます。慶安円環から明暦年間にかけての時代です。
  それは、1651年(慶安4年)に徳川綱重を藩主とする甲府藩が成立し、江戸幕府の直轄領が佐久地方南部に甲府藩領へと編合されていく時期でした。古道を下敷きに戦国時代に軍道として開削された佐久往還をもとにして、甲州道の脇往還として整備されていく時代です。
  それまでに徳川の平和のもとで近隣各地で都市集落や農村集落が形成され、自然成長した農民村落が街道で結ばれて、そのなかから甲府徳川藩と幕府道中奉行の双方の統治を受けながら、宿駅となる都市的な集落が形成されていきました。
  上畑村もそんな村落のひとつで、おそらくは真言宗の大寺院の塔頭支院が、人口が増えた新興集落に移転して末寺として自立したのではないでしょうか。


妻側の様子

◆新海三社と神宮寺◆

  上畑宿から北北東に8キロメートルくらい離れた山裾に新海三社神社という歴史の古い神社があります。幕末までは神仏習合の格式のもとで、古代に創建された新海山神宮寺という――七堂伽藍を備えた――真言密教の巨大寺院が神社の別当寺となっていました。
  神社の背後の山尾根全域が、真言密教の修験霊場となっていたものと推定できます。その系列に自福寺は属していました。神宮寺は明治維新にともなう神仏分離・廃仏毀釈政策によって、神宮寺は三社神社と分離され、寺号を上宮寺と変えることになりました。
  ともあれ、佐久田口の神宮寺の系列は、諏訪社との結びつきが深い寺院だったようです。上畑の自福寺が諏訪大社のすぐ近くにあるのは、江戸時代には神域と寺域が一体化していたことの名残りかもしれません。

  さて、自福寺は新興の宿場街に開創されたのですが、41年後に「戌の満水」と呼ばれる千曲川の大氾濫で村とともに潰滅してしまいました。

  1775年にようやく地福寺は再建されましたが、場所は諏訪大社の大鳥居と参道がある大門という地籍です。
  こういう地名は往古から有力な寺社がある場所であることを意味しているようです。自福寺の背後の山腹には諏訪大社や稲荷社などがあり、近くに窟屋のような地形もあって、朽ちかけた祠などが残っています。古くから密教修験の地だったのかもしれません。現在の境内の東寄りには本学寺という古刹の跡があったそうです。

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