佐久地方では平林の観音様としてよく知られている千手院津金寺を探訪します。本尊は千手観音で、奈良時代に薬師寺の高僧、行基が彫った木造仏だと伝えられています。
  寺院が位置する西向きの尾根の先端の丘は、中世に城砦があったであろうと考えられる場所に位置しています。周囲の集落も平安時代末から続いてきたであろう集落ですが、佐久穂町には古代から近世までの寺社と集落に関する史料や文物がさほど残されていません。この寺の起源来歴は謎です。


◆行基以来の始原密教の系譜を引く寺院か◆

 
平林集落の入尾後の丘に並ぶ千手院津金寺の堂宇群。鎌倉時代の城下街を彷彿とさせる景観だ。



▲石段の上に山門=仁王門がそびえる。左の道は本道に導く。


▲中世の城郭の門のように高台を扼している仁王門


▲弁天堂前から山門からの参道を振り返る


▲観音度への参道の左脇にある弁天堂


▲参道の右脇奥にある子安堂(子安地蔵が祀られている)


▲石段さらにのぼると観音堂前に出る。城郭本丸のような結構だ。


▲切り込み作の石垣が重厚だ。背後は修復工事中の漢音道。



▲先年、茅葺屋根表層を銅葺きに変えた観音堂


▲観音堂南脇に建つ鐘楼


▲客殿・庫裏を兼ねた本堂伽藍

仁王門の金剛力士像の吽形

今業力士像の阿形

  佐久穂町平林の千手院津金寺は、佐久十四番札所のひとつで「平林觀音様」と呼ばれて親しまれています。千手院は天台宗に属し、その前身は9世紀中頃(仁寿年間)に慈覚大師(圓仁:第三世天台座主)の開基だそうです。観音様という通称から見て取れるように、千手院は千手観世音菩薩を本尊とし日本三津金寺のひとつです。
  三津金寺とは、平林千手院と北佐久郡立科町山部の津金寺、甲州須玉の津金山海岸寺の3つで、このうち千手院と甲州の海岸寺は行基が彫った観世音菩薩像のひとつを本尊としているそうです。津金寺の創建は千手院よりもずっと古く、8世紀はじめに行基が編んだ草庵が起源だといわれています。
  本来の津金寺は平安時代、はじめ信濃における天台密教の修験霊場であるとともに中国から伝来した万巻の仏教典と仏教学研究の拠点として蓼科山中腹に創建されました。津金寺は現在の立科町山部にありますが、初期創建の寺院の直系のものが山部を意味するのか、別のところだったのかは不明です。津金寺の伝承は錯綜しています。
  蓼科山または蓼科山系の尾根群のうち北に降りれば立科山部にいたり、東に降りれば佐久穂町にいたるので、いろいろな可能性が考えられます。
  ともあれ、津金寺は荒廃衰微と移転復興を繰り返したようで、室町時代の応永年間(1394~1428年)に佐久穂町栄地区の宿岩を経て、千曲川東岸の青沼村十日町へ、さらに東方の木伐窪きがりくぼ(入沢の谷間かあるいは平林か)に移り、淨蓮寺という寺号で建立されたようです。

観音堂の北脇に建つ愛染堂

  ところで、宿岩という地名は、巨岩の上に本尊「千手観世音菩薩」を一時的に仮安置したことから、名づけられたと伝えられています――ここで宿とは、神仏の一時的な座所という意味です。また、十日町(現在の入沢)の甲州道脇にある六地蔵幢(重要文化財)も昔は千手院の大門前にあって、十日ごとに市が開かれ、やがて賑やかな町に成長して十日町となったのだとか。
  その後、さらに佐久穂町栄地区小山沢(当時、神楽村と呼ばれた)に移転したようです。神楽村という古い地名は、津金寺で古代の神楽(雅楽に合わせた舞楽)が演じられたことが起源なのだとか。
  戦国時代には佐久を攻略した武田信玄が寺に寺領(田畑の村落)と資金を寄進したそうです。   木伐窪の淨蓮寺では、古来の津金寺に伝わる観音様を安置するとともに平林山千手院津金寺と改号したのだとか。これがいわば観音像を祀る千手院としての開山です。しかしその後、再三火災にみまわれ、正徳年間(1715年頃)に木伐窪から現在の佐久穂町平林地区に移転されました。
  上記のように、寺の来歴を各種の伝承を集約して整理してみましたが、千手院としての由緒と津金寺としての由緒が錯綜しています。もっと立ち入った伝承については津金寺の伝承に関する記事を参照してみてください。


観音堂の千手院号の扁額と扉、内陣の大提灯

観音堂内に安置された賓頭盧びんずる尊者木造

|  次の記事に進む  |