律宗・始原密教、天台密教と津金寺
9世紀はじめ、遣唐使随行の学僧として唐の天台山にに赴いた最澄が学び、万巻の経典書物を携えて帰国しましたが、その経典書物を天台密教を体系化すべく研究した研究機関=修験霊場のひとつが津金寺だと見られます。
古代に創建された津金寺の衣鉢を継ぐ寺院は3つあって、ひとつめは甲斐(須玉)の津金山海岸寺、ふたつめは立科町山部の津金寺、そしてみっつめは佐久穂町平林の千手院津金寺です。ところで、津金寺そのものの起源は古く奈良時代だとも伝えられています。なかには渡来人家系に生まれ育った行基が彫った観音像を本尊として祀るものもあります。
甲斐の津金山海岸寺の寺伝では、717年(養老元年)に行基が草庵を構えたのが寺の起源だということです。彼はそこで民衆に農耕地開拓や用水路建設のための土木技術や医療を提供するとともに、木造の千手千眼観音像2体を彫って、そのひとつを海岸寺の本尊として祀ったそうです。
残りの1体は、蓼科山腹の堂小屋に創建された密教霊場、津金寺に祀られたと伝えられています。ただし佐久穂町側の蓼科山系双子山中腹に堂古屋と呼ばれた場所があるので、そこの最古の津金寺があったかもしれません。いずれにせよ、奈良時代には天台密教も真言密教も成立しておらず、行基直系の律宗の密教寺院であったのだとか。
伝承は錯綜していて、この津金寺が衰微して、佐久穂町小山沢という場所に最高再建されたとか、小山沢の津金寺が戦乱を避けて蓼科山腹に移設されたとか、ということになっています。
観音像と千手院の系譜
ともあれ、蓼科山または蓼科山系の多数の根のうち、北に降りれば立科町山部の津金寺にいたり、東に降りれば佐久穂町高野ないし穂積にいたります。いずれの可能性もあるわけです。
さて千手院の前身の寺院――津金寺だったかどうかは不明――の創建は、852年(仁寿年間)、慈覚大師による開基で本尊は阿弥陀如来だそうです。この頃には天台密教――比叡山延暦寺の教理――はほぼ確立されていたようです。 場所は小山沢と呼ばれる場所で、当時は神楽村と呼ばれていたそうです。やがて戦乱からか衰微荒廃し、やがて室町時代の応永年間(1394~1428年)、千曲川左岸(西岸)の岩宿に一時的に再建され、さらに対岸の佐久穂町青沼地区の東方、木伐窪に移転したのだとか。寺の門前では、十日ごとに位置が開かれ、やがて街集落が成長し、十日町と呼ばれるようになったそうです。
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このように移転を繰り返す過程で天台密教の寺院としては荒廃し、1370年頃に、臨済宗の学僧たちによる衰微した古刹を再興する運動が起こり、鎌倉建長寺から石堂善玖禅師を招聘して臨済宗の禅刹として再建されたようです。
そして、蓼科山の津金寺にあった千手観音像を本尊とするようになり、院号と寺号を改め、千手院津金寺としたそうです。おそらくその後、戦国時代にふたたび衰微し、やがて宗旨を天台宗に戻して平林の地で再興したのではないかと見られます。
ところで、佐久穂町では平安末期~中世をつうじて観音(千手観音)信仰と結びついて千手院と呼ばれる寺院がいくつも開かれたと見られます。
平林から7キロメートルくらい南に位置する穂積崎田にも慧日山千手院(跡)がありました。それは17世紀末に創建された黄檗宗という禅刹だったそうです。おそらくは、平林の千手院と何らかの関係があると推定できます。
平林山千手院津金寺の由緒来歴をめぐる伝承物語が錯綜しているのは、千手院という千手観音を本尊とする寺院がこの地方に複数あったからではないでしょうか。
立科町山部の津金寺は、山号が慧日山でこの千手院と同じです。そして、この寺と平林の千手院とは本尊が同じで同じ院号です。創建や再興などに携わった僧たちにゆかりがあったとしか考えられません。
観音菩薩の世界と観音信仰
仏教世界の曼陀羅体系によると、観音菩薩は、大日如来や阿弥陀如来などの配下として慈悲の心で世の中(人間界)の苦しみの声を聴き取るので觀世音――世の苦しみの音声を観る――菩薩と呼ばれるそうです。
多様な姿に身を変え、 三十三の姿で世の苦しみを救うのだとか。観音菩薩には六人の同胞――聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、不空羂索観音、如意輪観音――があって、千手觀音は、正確には千手千眼觀世音菩薩といいます。
さらに、千手観音と十一面観音が融合した十一面千手観音という菩薩もあります。民間信仰と密教思想が融合しているのかもしれません。民衆の側の要望・願望が仏教思想としての観音菩薩の存在様式に取り込まれていって膨らんだのかもしれません。
像形は普通両手両眼の外に左右それぞれ20本の手を備え、その掌に一眼を保有します。一手一眼がそれぞれ25の働きをするので、千手となり、千眼となるのです。
こ れは一切の衆生を斉度する無限の慈悲を現すものです。
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