寺伝によると、702年に大和の国薬師寺の行基が布教のため木曾路を経由して山部を訪れ、榧の木で1メートルほどの観世音増をつくり、一宇を立てて安置したのが開創だそうです。
その後、弘仁年間(810~823年)に天台宗の開祖、最澄が東山道を通る東国巡錫のさいに、諏訪を経てこの寺を訪れ、諸堂宇の建立を始めましたが、途中でふたたび巡錫の旅に出たとか。やがて、慈覚円仁が堂宇群を完成させたそうです。
▲仁王門の阿形と吽形
▲名物の大杉。樹齢は約900年だという。
14世紀半ばには寺運は隆盛を極め、広大な境内には36の院と14の房が並び、末寺108を数える総本山となったそうです。
14世紀後半に穏海大僧正がこの寺の法灯を継ぐと、その著『天台円宗四教五時名目』が広く流布したため、諸宗の学僧がこの寺に集まってきたことから、談議所(仏教学研究機関)がつくられ、修学院と呼ばれるようになったそうです。
▲裏山にのぼる石段
▲境内の裏山の石製の宝塔
16世紀半ばには信濃に勢力を広げた武田信玄によって厚い保護を受けましたが、武田家滅亡直後に織田信長軍の焼き討ちにあって、堂宇や文物のあらかたが消滅したそうです。
やがて1586年、小諸城主となった松平修理大夫康国(依田信蕃の子)が衰微した津金寺の堂宇を修築再建して復興させました。とろろがその後またもや火災にあって、寺は無住となってしまいました。
17世紀の半ば近くになって、ようやく江戸の東叡山寛永寺の支院の僧が住職となって、寺の再建再興に務めたのだそうです。
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