佐久甲州道沿い穂積天神の町家古民家が軒を連らねる家並み風景といえば、その中心にあるのは黒澤家、そして黒澤酒造ということになります。
  江戸末期に創業した酒造会社を中心に地場に多様な事業を展開し、明治~大正~昭和初期には銀行業を営む事業集団となりました。現在でも、長い歴史のなかで築かれた堅実な財政基盤のうえに、伝統的な街並み景観の保存や美術館の運営、地元観光業で大きな貢献をしています。


◆地場産業と街並み景観の保存活動◆

 
醸造工場に隣接する本宅・長屋土蔵が「千曲川最上流の蔵元 酒の資料館」となっている



▲海鼠腰壁を施した粋な長屋土蔵が資料展示場所


▲古民具ともいえる道具が並ぶ長屋門をくぐり抜ける


▲大正ロマンを印象づける小洒落た居住棟と端正な和風庭園


▲長屋土蔵のなかに展示された昔の酒造りの作業風景



▲連なる町家や土蔵と街道との間に前庭植栽が続く


▲黒澤家の広大な敷地に重厚な町家と土蔵が連なる


▲黒澤酒造の建物群(左側)の脇を往く旧街道


▲喫茶コーナーの奥には「古民具工房 創」がある


▲街道側から見た「古民具工房 創」の建物


▲土蔵に隣接した高麗門が格式を印象づける


古い蔵元看板と古い井戸の汲上げポンプ


巨大な桶や手桶、樽も古民具として展示

◆地場の有力企業と文化貢献◆

  このサイトは、信州各地の歴史的景観や史跡を訪ねて――非営利的視座で――歴史・地理・文化を探索し紹介することを目的としています。とはいえ、この街の歴史的景観の保全や文化活動を探索するうえで、大きな役割を果たしている企業の存在を語らざるをえません。
  黒澤酒造は1858年(安政5年)、蔵元として創業したそうです。当時、この地で最も有力な地主・豪農として醸造用の原料米を大量に調達できたがゆえの起業でした。明治以降、黒澤家は地場の事業群を経営する小規模な財閥(農工商複合体)ともいえる地位を築きました。
  今日この街に維持保全されている、大正時代に建築された瓦葺き町家古民家のほとんどを保有しています。黒澤家の事業展開と文化事業への貢献がなければ、街並み景観は存続できなかったでしょう。
  やはり、財政基盤が小さい町村では、手間と費用がかかる伝統的な街並み景観の維持保全は、健全に事業を営む企業の財政力なしには持続できないのです。


酒造、漬物づくり、農業用の古民具が並ぶ


盥や手桶、生糸紬用の糸繰車輪が雑然と並ぶ

◆多様な事業展開が意味するもの◆

  さて、黒澤家は、製造販売業/観光業/農業におよぶ多様な事業を展開する複合企業体(コンツェルン)を経営しています。
  蔵元として製造しているものは、清酒(井筒長・マルト・黒澤・雪国)で、ブランドごとに特化した販売地域・販売方法を設けています――また、清酒の副産物として本格焼酎「井筒盛」を提供しています。風味はフランスブルゴーニュ地方のコニャックにも負けません
  さらに、地元産原料だけを用いたそば焼酎・菊芋焼酎を醸造するとともに、蔵元「手造りあまざけ」や「桑の実リキュール」などの果実酒、清涼飲料・ミネラルウォーターを製造販売し、特産漬物も製造販売しています。


蔵元の清酒や焼酎などが棚に並ぶ販売コーナー


酒類販売店舗の奥にはギャラリーがある

  他方で、観光向け地場情報・文化の発信事業として、酒の資料館/ショップギャラリー/ギャラリー喫茶などを手がけています。目立とうとしない姿勢が好感を得ているようです。
  上記の製造事業のために酒造用稲作、漬物用野菜畑作、焼酎用菊芋やリキュール用果実を栽培しています。
  こうした地場で緊密に結びついた部門の複合的な経営によって、佐久穂町という一地方が外部地域に過度に依存することなく、また行政への過度な依存もなく、地元自治体と互いに連携して、地場産業での雇用の場を確保しながら自立的に地場経済を回すための試みに挑戦しているのです。質という点では、ローカルブランドがナショナルブランドを凌駕しているかもしれません。

  信州各地では、少子高齢化、それと連動した農業の担い手激減にともなって歴史的な街並み景観や文化の継続や維持が袋小路にはまり込んでいるところが目立ってきました。ところが、佐久穂穂積の黒澤酒造を中心とした試みは、一条の希望の光ともいえます。

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