▲東参道沿いの長沢地区の大棟造りの古民家
禰宜太夫邸はこの家を西端として10メートル四方が屋敷地だったか
▲東参道脇に立つ長沢の双体道祖神:近くに禰宜太夫宅跡があったらしい
道の向かいの街区全体が禰宜太夫館の屋敷地だったのではないか
▲以前、道祖神の横には赤いトタン葺の古民家があった
子の家屋の道を挟んだ街区が禰宜太夫邸だったと見られる
▲石塔・石仏などが四辺形に並んでいる:右から2つ目が石幢
▲石灯籠のような形の石幢 |
諏訪大社上社本宮の東参道沿いはその昔、長沢――地元の人びとは「ながっさわ」と呼んでいたそうです――という地籍だったようです。地名から勝手に想像すると、往古、本宮横の御手洗川から分かれた沢(水路)が流れ出て西沢川に注ぎ込んでいて、人びとはそれを街用水や灌漑用水として利用していたのではないでしょうか。
さて、この長沢地区には、東参道の北斗神社の参道下の向かいに双体道祖神があります。
建立年代はわかりませんが、石の表面には幾重にも苔むしていて相当に古いもののようです。この辺りの石仏・石塔のなかには天保とか、江戸時代に祀られたものがいくつもあります。
無住となり荒廃した古民家
見た目では昭和初期よりも古い時代――100年以上前――の建立ではないかと思います。本宮の周りの道路は便利さを追求してどんどん改造されてきました。道路整備にさいして、せめて古い地理を記録し表示してほしかったというのは、外来者の勝手な願望です。
そういえば、この辺りの家屋は住む人がいなくなって荒廃し、どんどん解体撤去されています。この道祖神の隣にも、大正~昭和前期の建築と見られる古民家があったのですが、数年前に解体撤去されました。この辺りに禰宜太夫宅跡があったそうです。
左端は大乗妙典経の奉納碑
東参道を道祖神から20メートルほど進んだ右手に諏訪市教育委員会による「石幢」の説明板が立っています。その奥の民家の脇に石仏や石塔がほぼ四辺形に並ぶ一角があります。そのなかに石幢があります。
説明板では、六地蔵を祀る六角柱あるいは八角柱だということなので、石灯籠のような石塔がそれです。笠の下は六角柱になっていて、穴が6個穿ってあります。この穴それぞれに地蔵様が彫られているということなのでしょうか。 |
▲「石清水」という名札がたっている手水舎
▲少し凝った造りの水場: 参拝者のための清水だろうか
東参道は県道16号建設のために強引に変形されてしまっています。前の古い参道は諏訪大社上社の歴史を偲ぶ意向なのに、自動車道路を優先してしまったようです。残念です。
石清水から80メートルほど東――国道脇に残っている以前の参道の南――に小高い塚が2つあってサワラの高木がそれぞれ1対ずつ立っています。そのひとつは藤森稲荷社だということです。
▲古い参道跡の南脇に石祠を祀る2つの塚が並ぶ
▲奥の方の祠の前には木製の鳥居がある
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大変に立派な造りの手水舎だ
ふたたび参道に戻って20メートルほど進むと、古い道の跡の南脇に手水舎があります。「石清水」と呼ばれている水場です。飲料にもできる諏訪の名水だそうです。
水場の奥にはサワラの木を挟んで1対の石祠が置かれています。ここが泉ならば、この祠は水神様でしょう。
奥にはサワラを挟んで一対の石祠。水神社だろうか。
石清水から東に80メートルほどのところにサワラの高木が1対並ぶ塚が2つ隣り合っています。
どちらも塚のてっぺんのサワラの根元に石祠が祀られています。道の近く、手前の方には祠の奥側に1対の小さな御柱が残っています。奥の祠の前には木製の鳥居が建てられています。いずれにも御柱があったのですが、6本は倒されて保存されています。
奥の祠脇には御柱が6本抜かれて置かれている
石清水から東に80メートルほどのところにサワラの高木が1対並ぶ塚が2つ隣り合っています。
奥の方の塚に立つサワラは樹齢が250年以上はありそうです。そうすると、こちらが古くから祀られた祠で、手前の方が後から祀られた祠ということでしょうか。綿の勝手な想像では、どちらかが藤森稲荷で、もう一方はミシャグジ様ではないかと見ています。
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▲重厚な構えの薬医門: 高麗門(棟門)ではない
▲屋敷前の歩道からの眺め
▲古びた大棟造りの邸宅と荒れた庭園がある
▲役宅部分と居住区部分が塀と門で仕切られていたようだ
▲狭い境内の端に蚕玉社がある。昭和前期まで養蚕が盛んだった。
▲本殿前の崖石段の縁から下を眺める。絶景だ。
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屋敷地は明治以降に切り縮められたらしい
諏訪大社上社では、大祝諏方氏の下に五官と呼ばれる神官団が置かれ、祭政を補佐してきたそうです。祭事に実務を取り仕切るのが神長守矢氏で、さらにこれを輔弼するのが禰宜太夫小林氏など、権祝矢島氏、擬祝山田氏など、副祝長坂氏などです。
ここで訪ねるのが、権祝の矢島邸遺構です。国道16号を挟んで藤森稲荷の斜向かいに位置しています。東参道から国道16号に出ると、国道沿いに非常に格式が高そうな気配の重厚な薬医門がありますが、そのお屋敷です
庭の築地が不自然に断ち切られている私道側
国道沿いにある重厚な薬医門は、比較的に傷みが少なく保全されている印象なので、昭和期に改築したものと思われます。というのは、大祝諏方家邸宅の正門が棟門(高麗門)で、これは薬医門よりも一段格下の結構と見られるからです。大祝諏方家の門が天保期以来のもとだとすると、矢島邸では昭和期になってから。かつての身分序列の上下に関係なく、正門を見栄え良く改築したのではないでしょうか。
とはいえ、壮麗な造りの邸宅には人が住まなくなって長い期間がたっているらしく、殻に荒廃しています。そして、ここは今でも矢島家の私有なのでしょう。文化財として公開もされず、手も入れられずに荒廃が進むがままだからです。
屋敷地の周囲をめぐってみると。西側の私道側では自然石を平積みした築地が不自然以断ち切られています。明治以降に、神職家の世襲が禁止され、その屋敷地のうち居住区以外の部分が没収されて民間に切り売りされましたが、そういう経緯で屋敷地と提案が切り縮められたものと見られます。往時の屋敷地は、現在の4~6倍ほどの広さがあったと推測されます。
庭の築地が不自然に断ち切られている私道側
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