本文へスキップ
長野県茅野市宮川
 

  諏訪大社上社前宮の近隣には、小さな神社(祠)や寺院があります。境内が大祝氏の居館(神殿)の敷地でもあったせいか、小さな神社の祠は境内社ないし摂社としてまとめられることなく、昔ながらの位置に保たれているようです。
  とはいえ、前宮とともにあったはずの寺院については史料がなく、わかりません。

小町屋の祠群  


▲小町屋の中小路の脇に立つ大ケヤキ。その根元に柏手社の小さな石祠がある。

  今回は古町屋の中小路から地蔵小路の辺りをめぐって、小さな神社・祠群を探訪してみます。
  水神の祠から水眼の流れに沿って小町屋の中小路を70メートルほど下っていくと、右手(東側)に大きなケヤキがあって、その根元に小さな石祠が祀られています。これが柏手社です。脇に安国寺史友会による説明板が建てられています。
  説明によると、神事にさいの供物の膳を擁したところで、前宮での儀式の締めくくりとして、ここで神事をおこなってそれから本宮に詣でるという儀典の流れだったようです。その意味では重要な社だったのですが、今は小さにし祠だけが残されています。


急傾斜の高台に祀られた祝神社: 背後に立つのはカヤノキのようだ▲

  そこから南東に40メートルほど離れた場所に、小ぶりな石鳥居をともなう祠群が安置されています。前宮十間廊の前の説明板によると、祝神社だということです。郷土史家によると正しくは祝殿社四社のひとつだそうです。
  この2つの神社は、ともに水眼の流れと樋沢川がつくった扇状地の急斜面の壇上にあって、開けた展望のなかに北方の八ケ岳を仰ぐ位置にあります。

■柏手社を訪ねる■


▲小町屋の中小路: 柏手社は右手にある


▲柏手社のケヤキの老巨樹

  上記の柏手社脇の説明板にはこう記されています。
  「古い時代は食物を盛るのに柏の葉を用いたり、また柏の葉を折って飲食器にも用いた。
  ここ柏手社は、前宮の神前に供えるものや共演の膳部を調理したところと思われる。
  建武二年(1335)や応永四年(1397)の「大祝職位書留」には諏訪明神の現人神となる大祝の即位式において、神聖な秘法の儀式が終わると、本宮の参詣する前に、この社で神事を行ったとある。」
  そうだとすると、ここには多数の神官や家臣従者が集まったはずです。供物としての膳を調理する納戸や厨もあったでしょう。してみれば、階段状に並ぶいくつもの壇に分かれて社殿群が並んでいて、柏手社の敷地は10坪以上はあったと考えられます。
  そういえば、以前、この場所の上の壇には住居(民家)があって、敷地が20坪ほどもあったそうです。
  すぐ近くに祝神社がありますが、この柏手社とは直接には関係がないようです。柏手社は古い社の跡地(遺構)として手つかずで残されてきたようです。


ケヤキの根元に小さな石祠、その手前に説明板がある

中小路沿いの斜面は棚田状のテラスになっている

ほぼ東を向いて立つ柏手社の祠

祠の前から北に茅野市街と永明寺山を眺める
■祝神社を訪ねる■


▲丘陵斜面の壇上に小ぶりの鳥居と祠

  祝殿社に関してはずい分と入り組んだ歴史的経緯がからんでいるようです。上記の柏手社の祭事は室町末期までは催されていたようですが、徳川時代にはなくなっていたようです。戦国時代の戦火や混乱のなかで伝統が絶えてしまったようです。
  郷土史家によると、祝殿社というのは、大祝氏の直系子孫の諏訪氏とその有力な分家の茅野氏と結びついた社殿で、慶長年間から江戸初期に建立されたもののようです。
  諏訪頼永が上州から諏訪領主として高島城に戻り、子息が当主となって大祝家が再興され、居館を小町屋から宮田渡みやたどに移しました。一方、茅野市も同じ苦情羽州から帰還して諏訪藩の家老となり、小町屋の地蔵小路脇に居館(家老屋敷と呼ばれた)を設けました。その屋敷の南端の一角に4つの殿社が建立されたのだとか。今は地蔵小路側に祝殿社が残されています。
  家老屋敷では南側が上座なので、北方の八ケ岳と街主落を見わたすように社殿を祀ったのでしょう。

  さて、祝殿社の小ぶりの石鳥居の奥には、コンクリート壇上に3つの祠が並んでいます。郷土史家によると、中央は太夫家としての千野家の祖霊を祀る廟で、向かって右はアメノコヤネやフトタマなどの神々を祀る祠らしいそうです。左端の赤い祠は稲荷社かもしれません。


▲小マンから見た3つの祠


▲真横から背後を見て見ると…

  江戸時代には、茅野家老邸のいわば氏神ないし屋敷神として祀られていたようで、前宮の祭事とは直接には関係がないようです。したがって、家老邸の敷地は柏手社(遺構)まではおよんでいなかったのでしょう。


柏手社から南東方向に祝神社を眺める

段丘の上に2つ目の大鳥居(二の鳥居)がある

二の鳥居をくぐると右に内御玉殿: 宝物を収納していた

10平方メートルほどの神域に3つの祠。背後にカヤノキが立つ。

中央の祠が千野家の祖霊を祀る廟らしい

鳥居の辺りから下が「家老屋敷」の館跡だと思われる

前の記事に戻る || 次の記事に進む |