▲この尾根の上に干沢城があった。尾根裾(陸橋の下)に元の安国寺があった。
▲水田に囲まれ、端正なたたずまいの安国寺
▲裏手の水田越しの安国寺本堂と庫裏の様子
▲安国寺の鐘楼門: 右手は皇大神宮の境内
▲本堂前の端正な薬医門
15世紀前半、甲斐の国と隣接する諏訪郡を治めていた諏訪惣領家とその家臣団(諏訪衆)は、信濃での勢力拡張のために武田家と同盟した。しかし、やがて1542年に諏訪家が越後の上杉家と和睦すると、武田家との同盟は敗れた。おりしも、父親を追放して武田家の家督を継いだ信玄は諏方攻めを企図した。
そのさい信玄は、高遠諏訪家の頼継と盟約を結んで、頼継と武田家とが諏訪郡の領地を分け合う条件で、挟撃する形で諏訪惣領家を攻撃してひとたびは滅亡させた。
しかしその直後、惣領家なきあと諏訪郡全体の支配をめざす高遠頼継と武田家とは敵対することになる。まもなく信玄は、惣領家の遺児を擁して諏訪惣領家再興を名目に掲げて、頼継を追討する陣を起こした。このときの戦闘の舞台が、現在の安国寺の近隣地だった。
▲薬医門脇の塀越しに本堂を眺める
本道脇の庭園の様子: 庭園の奥は皇大神宮
▲近藤前から庫裏を眺める・ 前庭は狭いが端正
▲参道脇に並ぶ石仏や石塔は近隣で発掘されたもの
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諏訪大社上社前宮から干沢城の尾根を挟んで東南東に700メートルほど離れているところに、泰平山安国寺があります。
安国寺は、臨済宗妙心寺派の寺院です。本尊は釈迦如来像で、開山は夢窓疎石という高僧だそうです。
鐘楼門脇の説明板によると、1338(延元3)年に天下を平定して征夷大将軍となった足利尊氏は、夢窓禅師の勧めに応じて、後醍醐天皇や元寇以来の戦乱によって死傷した人びとの菩提を弔い、あわせて足利幕府の威信を示して民心をつかむため、京都に天龍寺を創建し、その後、国ごとに安国寺を――天龍寺を総本山とする系列下に――創建したということです。「国」とは大宝時代に定められた律令制にしたがって、大和王権の66の管区として分かれていた地理的領域のことで、「令制国」と呼ばれます。
各令制国に七堂伽藍を備えた安国寺と名づけられた寺院が建てられていきました。信濃国安国寺は1341(暦応4)年、室町幕府奉行人の諏訪円忠が尽力して建立されたそうです。場所は干沢城の尾根裾で、城下町である大町の外れでした。⇒参考記事
信濃安国寺は五重塔あるいは三重塔を備えた大きな寺院で、塔頭八刹として永閑寺、等々寺、能訓寺、恩光寺、正願寺、三聖寺、金剛寺、大正寺を擁し、隆盛をきわめていました。近隣には大町に連なる街区として門前町が広がっていたと伝えられています。
本道濡れ縁と北脇の山水庭園
ところが1467年の応仁の乱の後、諏訪地方でも領主化した上社の大祝氏と下社の金刺氏とが敵対して争うようになりました。安国寺と大町は1480年には両勢力の衝突による戦火を浴びて破壊され、さらにそこからの再建・再興途上にあった2年後には宮川が氾濫して堂宇をほとんど流失してしまいました。
それから安国寺はいよいよ荒廃衰滅していきました。1542年(天文年間)には、現在の安国寺がある場所で武田信玄による諏訪氏襲撃の戦火が起きました。諏訪を支配することになった武田家の家臣となった諏訪惣領家は安国寺を再建立し、帰依しました。武田家も安国寺を保護したことから寺は中興を迎えたそうです。
武田信玄は諏訪攻めにさいして戦闘を最小化するために調略をおこなって、一族や諏訪衆のなかに親武田派をつくりました。そして親武田派が圧倒的多数派になります。そのさい臣従の条件として、荒廃した社としての前宮の再興や安国寺の再建を示したと思われます。
1542年、武田信玄の諏訪攻めに敗れた頼継は高遠まで逃げ落ちました。武田家は諏訪郡を直轄領として、自刃した諏訪惣領家の頼重の弟を大祝諏方家の継承者としました。
本堂と庫裏の連濶部の唐破風はみごとな結構
しかし、やがて織田家と徳川家の同盟軍が信濃と甲斐に攻め込んで武田家が滅されると、諏訪家は上州に逃れ、大祝諏方家や守矢家は隠遁逼塞することになったようです。織田家・豊臣家の信濃仕置きのあいだに諏訪社とともに安国寺はすっかり衰退してしまいました。
ところが、豊臣政権が滅びた後に諏訪家と千野家は諏訪の所領を奪還回復し、徳川家に臣従することになり、幕藩体制下で諏訪家は戦功により高島藩主に封じられました。そして、18世紀末近くになると、諏訪藩主家の帰依と庇護を得て、現在地に安国寺が再建されたということです。
寺の南の山腹に続く小飼集落
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▲安国寺の鐘楼門の横に鳥居が並ぶ。背後の尾根に干沢城跡がある。
▲皇大神宮の社殿: 拝殿と本殿を兼ねている
▲鳥居の前は武田家と諏訪家との戦場(1542年)だった
▲サワラが主体の境内の杜
伊勢神宮を典型とする大和王権系の神宮では、鳥居や社殿の形が独特です。鳥居は神明様式で、両柱が直接地面から垂直に立ち上り、水平の島木と貫の中央を結ぶ額束がありません。社殿の屋根も両端に「そり」がない切妻造りで上に千木が並びます。これに対して明神様式は、両柱は地面の台座・台石から少し斜めに立ち上がり、両端がそり上がった島木と貫の中央を額束が結んでいます。
伊勢社ではこの規則が厳密に守られています。しかし、従来の神社を「国策」に便宜的に合わせて改装した「皇大神宮」では、様式が折衷的な場合もあります。とくに戦後は、規則が緩くなりました。
*神社の鳥居と社殿の基本2類型(☜マウスオンで表示)
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鳥居は神明宮風ではなく明神社風
寺院が神社の別当(管理者)を任ずるのは、神仏習合の伝統の上に江戸幕府が定式化した制度です。そこで、安国寺の隣に皇大神宮があるのは、一見自然に見えます。ところが、神社が大和王権系の皇大神宮になったのは、明治政権による国家神道思想の浸透政策によるものだと見られます。
明治政権の宗教政策は、本来あった宗教や信仰のありようを強引に転換してしまいました。ではありますが、今となっては、安国寺の隣にちんまりと皇大神宮が鎮座している風景は伝統的な景観のひとつとなっています。
というのも、神宮の鳥居は本来あるべき神明様式ではなく明神様式で、明治政府の強引な国家神道イデオロギー政策は、住民の信仰文化そのものを曲げてしまったわけではなさそうだからです。境内には天満宮などもあるようですが、明治以降にここに八百万の神々を集めたのでしょう。
その意味では、ごく素朴で雑然とした民衆の信仰心が強権的(権威主義的)な国家の政策の下でもそのまま息づいてきたということでしょう。地方民衆の信仰心は国家神道思想に従属しているのではなく、むしろ皇太子神思想が民衆の信仰の付属品でしかないものとなったのです。
神明宮風と明神社風の折衷の社殿
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