■河川と堀で囲まれた城館だった■
上掲の2つの絵地図(解説文付き)は、諏訪市教育委員会が刊行したパンフレット『諏訪上社大祝諏方家住宅』から引用したものです。これに――同じ資料の「敷地配置図」をもとにして――現在の敷地と周囲の風致区域を上書きしてあります。幕末まで諏方家の居館がどのような縄張りと構えだったかを想像するために掲載しました。
かつては諏訪大社上社の最高位の神官であって有力な領主でもあった家門の居館遺構(跡地)です。往時の宮川の流れは、東から北西にかけて四半円弧のように蛇行していたようです(下掲の地図を参照)。そして、館の南側と西側には大きな堀(濠)が設けられていました。
ということは、3000坪以上もある四半円形の扇型の広大な敷地が川と堀によって取り囲まれていたのです。してみれば、これは小ぶりな城館、城郭とも呼べるような構築物だったのです。
今、大祝諏方家の住宅跡として保存されているのは、往時の20分の1ほどの面積でしかなく、隣接する神社境内や駐車場、風致区域を合わせても8分の1ないし10分の1の範囲しか残されていないということになります。
■明治維新による転換■
明治維新の政策によって、全国の神社(神官家)の領地や屋敷地は政府によって没収されて、切り分けられて民間に払い下げられました。廃仏の太政官令によって無数の寺院が破壊されましたが、神社もその経営基盤や土地を奪われたのです。
それによって、神職の世襲制も含め身分格差の多くが解消されましたが、文化財や遺構の多くが失われてしまいました。進歩のためとはいえ、じつに残念なことです。文化はそれを支えていた権力基盤や制度とともに消滅し、変動するのです。
建物に関して言えば、木造だったことが破却や解体を容易にしたのかもしれません。
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■建物の縮小■
上の図にあるように、文政期に焼失して天保期に再建された広大な屋敷は300坪以上もあったそうです。屋敷は、@祈祷を含む表御用向きの建物部分、A奥向きの居間や居住空間、B台所、C離れや「たや部屋」など別棟に区分されていたようです。しかし昭和初期におよそ80坪に縮小され、現存の構造ではさらにその半分強に縮小されています。
現存の構造を見ると、公用のための建物で、私的な居住空間がほとんどないように見えます。
■上社の所領の湿田地帯だったか■
さて、この屋敷跡一帯は、宮田渡と呼ばれていました。じつに不思議な地名です。今でも堀や池沼があるところからすると、中世にはこの辺りは宮川とその支流、用水などが縦横に流れていた河畔湿地帯・湿原だったのでしょう。そして、室町末期から戦国末期までに大祝諏方家がここに居館を構えるほどに諏訪大社上社と縁がある場所だったのは確かです。おそらく諏方家の所領だったのでしょう。
氾濫の危険もありますが、春から秋には湿原・湿地帯を開墾して水田稲作ができる肥沃な場所です。川の増水があれば、近隣の高台に避難できます。したがって、上社への捧げもの、供物の稲を栽培する田圃、すなわち宮田だったのではないでしょうか。そこでは、重要な祭事が催されていて、つまりは諏訪神の渡りがあったのではないでしょうか。
居館を建設したときには、防備として水濠を掘り下げ、取った土砂を積み上げて嵩上げした土地に館を築いたと見られます。
下掲の地図も同じパンフレットからの出典です。往時の宮川の流れと一帯の地理を見ていただくために引用しました。グーグルマップの航空写真で、宮川の往時の蛇行した流路を探索してください。おぼろげに古い流路の跡が見つけられそうですよ。 |