宮川の支流、西沢川の中流部の丘からの眺望: 大祝諏方家邸宅跡は写真中央の叢林の一帯にある

大祝諏方おおほうりすわ家館跡の地理◆


  ここでは、大祝諏方家居館跡(遺構)の現状を探ります。幕末以前のこの居館がどうであったかについては、関連記事を参照してください。
  現在ここに保存されているのは、昭和後期の諏方家の住宅・敷地です。その敷地は、金網に囲まれた300坪ほどで、幕末までの居館敷地の10分の1にすぎません。また大棟造りの住宅は40坪ほどで、昭和初期の邸宅の半分ほどの建坪です。戦後に宮川の流路を変え、農業用水路を建設して旧居館の屋敷地のうち諏方家居宅の外側は水田などの耕作地とし、昭和末期まで耕作がおこなわれていたようです。昭和後期から住宅地となった一方、旧居館の一部分が神社郡の境内や風致地区となったと見られます。


▲湿田のような浅い沼があるが、荒れ果てている


▲湿地の東に広がる草地は春日社などの神社群がある


▲春日社:鳥居に正対してるのはこの社殿。横には天満宮。


▲金毘羅社、皇大神宮などの石祠が並ぶ


▲三崎稲荷社の脇からの景観: 小径の先に上社本宮がある


▲大祝諏方家屋敷の土蔵裏から社殿群を眺める


▲宮川から引いた農業用水路と畔の桜並木


▲宮川から引いた農業用水には、清冽な水が流れている


本宮東参道から居館跡に向かう小径の末端に居館跡

  大祝諏方おおほうりすわ家邸跡は、今ではずい分に錯綜した地権状況のもとにあるようです。この不思議な状況は、明治維新で寺院や神社など宗教施設や保有地を国家(新中央政府)が没収して分割し、民間に譲渡したことが発端となっているようです。
  現在、居館跡は、昭和期までの諏方家の住居敷地部分とそれを取り囲む神社群の境内、農地だったものが耕作放棄されて草地になった区画、農業用水とその畔の樹林や草地、諏訪市が景観や環境の維持のために管理している風致緑地帯などが混然一体となっています。居館跡の周囲の敷地は分割されて私有化されたため、文化財や遺構として管理できないうちに、耕作地化や住宅地化が野放しに進んでしまったようです。
  昭和中期以降は、戦後の混乱からとにかく復興するため水田開墾が展開し、やがて高度経済成長が始まって、宅地化が加速してアナーキーな状況がさらに進展してしまったのでしょう。
  平成期には高齢化や少子化、経済停滞という危機のもとで、ようやく無秩序な市街化や際限のない宅地拡大が終わりました。耕作放棄地も増えて、諏訪市の財政資金がない状況下で行政と住民が協働し、知恵を絞って諏訪大社をめぐる史跡や遺構の保存や管理に取り組むべき時代となったようです。御柱祭りに注ぐ資金や情熱の一部分を古民家・文化財の保存にも割くべきではないでしょうか。
  見栄えのするお祭りも大事ですが、街並み景観や古民家など足元の文化財の保全を地道におこなうことこそが、諏訪・茅野の街としての格式を保つのです。


春日社の社殿:手前は天満宮の祠

御柱に囲まれた中部屋社らしい(式年造営をおこなう)

  屋敷跡の北西側に隣接する草地や叢林の南端には木製の鳥居があります。この風致地区は多数の神社が集まった境内・神域であるようです。
  鳥居の真後ろに春日社の端正な社殿が建っているということは、主祭神は春日社なのでしょうか。これは明治以降に建立されたものでしょう。
  しかし、パンフレットの敷地図によると、この草地は本来、上社前宮の社殿が祀られた場所で、前宮の祠の横に御射山鶏冠社と、簡略に式年造営をおこなう御中部屋社が併設されていたようです。そして、三崎稲荷社、皇大神宮、金毘羅社が合祀されていたのです。


邸の東側側はもとは水田地帯で、今は住宅地

◆大祝諏方家住宅の現状◆



▲神社境内や風致区域とは敷地は板塀で仕切られている


▲垂木がみごと。屋根はもともとは茅葺または杮葺きだったか。


▲内側から門を振り返る。門の前後に立つ樹木はサワラ。


▲樹木や植栽は藪になりつつある


▲サルスベリや楓の老樹が並ぶ。主屋は大棟造りだ。


▲手をかけた大棟造りだが、荒廃が目立ってきた


▲なまこ壁をともなう土蔵は昭和後期に修築されたか


▲土蔵の脇の大イチョウは樹齢200年超だとか


棟門が格式を示している

棟門の横からの眺め

  さて、それでは住宅の正門脇から敷地に入ってみましょう。この門は棟門と呼ばれる造りで、上掲の写真のように屋根を支えるのは1対の本柱だけで、その背後に本柱を支える1対の添え柱と貫があります。
  天保時代の建築ということなので、高い格式の武家や公家、寺院、宿場の本陣などだけに設置を許された門の形式です。敷地の変更(縮減)にともなって50メートル東のここに移設されました。

  見学のために、地面の敷いた材木で両側を縁取られた遊歩道だけ通行を許されています。この数年、コロナ禍で訪れる人もめったにないせいか、屋敷は主屋も庭園もいたるところが荒廃しているように見えます。
  建物について見ると、天保期の広大な屋敷は別棟を含めると300坪以上もあったそうですが、昭和初期に約80坪ほどに縮小され、現存の主屋はさらにその半分ほど(お40坪余り)の規模となってしまっています。


今は木陰が草の繁茂を抑えている

樹林に囲まれた現存主屋(居宅)

  見学用の遊歩道は、建物を一回りするように設けられていますが、池や水路もあるので、一部分は通行ができないようになっているところもあるようです。
  屋敷地の北端にはなまこ壁の土蔵が置かれています。この土蔵は、昭和前期に改築または修築・移築したものらしく、配置と向きも変わり、往古の造りとは違うようです。その脇に立つ大イチョウは樹齢が200年を超えているようなので、この老巨樹だけが幕末以前の往古を伝える遺物です。
  大祝諏方家は2002年に末裔の方が死去したため、断絶したそうです。その結果、市所有の文化財となったのでしょう。


敷地内の池と水路は今も水を湛えている

水路でや敷地内の水辺とつながっている敷地外の池

◆近隣散策路の風景◆



▲宮川流域の水田地帯のなかに並ぶ古民家


▲権祝矢島邸から大祝諏方家邸跡に向かう道すがら


▲大祝諏方家邸跡の南側のお屋敷。竹製の門塀が洒脱だ。


▲不動産会社が所有する瀟洒な和風別荘風のお屋敷


道の上に御柱祭りを祝う飾が翻る

  諏訪大社上社本宮の東参道から大祝諏方邸跡にかけての一帯は、田園風景のなかに伝統的な入母屋造りや大棟造りの古民家が残っていて、散策すると楽しい場所です。一方で、高齢化や少子化にともなう無住化で古民家の荒廃も見られます。
  本宮の周囲では道路や駐車場の建設・整備で古くからの景観がどんどん造りかえられていますが、こいうい伝統的な景観はぜひ残してほしいものです。
  田園風景のなかに屋根に雀踊り(雀脅し)を載せた伝統的な古民家は、やはり近代の諏訪に似つかわしく美しい景観です。


和風の古民家が良い感じ

神宮寺長沢の路地の景観

前の記事に戻る || 次の記事に進む |