■武田菱紋の霊廟がある屋敷■
相之島の集落のなかを取材しながら歩き回っていたときに、近隣に住む女性から「御霊屋がある住宅がある」と教えてもらい、この屋敷の前まで案内されました。
屋敷の南側にある門の前に立つと、右手(東南端)に屋根大棟の両端に武田菱の家紋をあしらった小さなお堂があります。つまり、武田家の祖霊を祀る霊廟です。ところが、門の表札は市村とあります。市村家の先祖が武田家から分家して出たのか、あるいはかつて家臣として仕えていた主君である武田家の祖霊を祀っているのか、いずれかだと思われます。
屋敷と庭園を取材・撮影することにして、この屋敷のご当主と見られる老婦人に挨拶したときに、そのことを尋ねましたが、詳しいことはわからないようでした。
これまで『信州まちあるき』のための取材や調査のなかでは、鎌倉後期から室町時代を経て江戸初期までに農村開拓を導くために未開拓地に着任して、その後にでき上った村落の名望家や指導者になった家門の屋敷に先祖や主君の御霊屋を設ける事例を見聞してきました。
してみれば、だいたい16世紀の半ば頃、相之島での農耕地と集落を開くために武田家から派遣されたのではないか、そして、市村家の先祖はもともとは武田家の家臣の一族で、この地に着任して村落建設を指導した名望家(郷士)のひとつだったのではないか、と想像できます。
主屋は床下が高い高床となっていて、禅庵の縁側のような趣がある。堂舎に準じた造りにしたのは、あるいはこの地が低湿地なので、浸水を防ぐためか。
■農民の家屋としては特異なつくり■
武田菱紋の霊廟があるということで、いったいこの屋敷はどういう来歴なのだろうかという疑問を抱きました。
そういう視点で見ると、主屋古民家には往時の農民の住居とは異なる特徴があることに気がつきました。茅葺屋根には、軒側が端に行くほどせり上がっている「そり」があるのは、いわば当たり前です。が、この屋根の上辺が上側に膨らんでいる「むくり」があります。
茅葺屋根にこの2つの特徴が備わっているのは、室町前期に日本で普及した禅宗様式の寺院建築――阿弥陀堂などに多い――ということです。もちろん、北信濃の農村の住居ということで、禅宗様式に準じた建築だとも見られます。
さらに主屋の縁側床は堂舎のような高床になっていて、床の高さが60センチメートルはありそうです。囲炉裏が設えられたであろう座敷や居間の床は低くなっていますが、これは普通の農民の住居としての特徴といえます。そして、往古には床下土台には石垣が施してあったのかもしれません。
縁側などの床が高いのは、堂舎風に設えたという理由のほかに、この地が千曲川河畔の低湿地(の微高地)であるため、増水氾濫にともなう浸水が床上におよぶのを防ぐためかもしれません。当初は石垣で基盤を嵩上げして、さらに高床にしてあったとも考えられます。
面積は狭いが隙がなく端正な庭園
■武田家滅亡とともに埋もれた歴史■
信濃全域に勢力を伸ばした武田家でしたが、やがて織田と徳川の連合軍によって滅ぼされてしまいました。織田家も没落し、北信濃は上杉家によって接収・統治されることになりました。
ところが豊臣家が覇権を握ると、上杉家は会津に移封になり、それまで北信濃にあった領主たちの大方も上杉家に臣従していたためにこの地を去りました。まもなく豊臣家も滅んで、徳川が覇権を手にします。
というような目まぐるしい変動のなかで、相之島を含めた千曲川東岸地帯の開拓を指導した旧武田家ゆかりの名望家の歴史も埋もれていくことになったと見られます。というのも、上杉家支配から織田・豊臣家支配の時代まで、武田家とのつながりは、むしろ表明をはばかられる来歴と見なされたからです。
たとえば、相之島の対岸にある長沼宿の草創を担った家門の西島家は、旧栗田城主の家門で栗田村の開拓を指導したにもかかわらず、武田家の家臣だった栗田城主の後継であることを伏せるために、姓を西島に変えて長沼宿の庄屋・問屋を勤めたそうです。
相之島の市村家もまた世をはばかり、武田家との結びつきをことさらに標榜することはなかったようです。ただしその代わりに、武田菱紋を施した小さな霊廟を屋敷神のように祀ってきたと考えられます。
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