現在、千曲川は、長野市村山、柳原、長沼(大町、穂保、津野、赤沼)の集落群の東に隣接して流れています。 ところが、史料や各地区の古老の話によると、昭和中期まで千曲川の本流ないし主流は現在地よりも相当に東寄り(須坂寄り)に流れていたようです【⇒参考地図】
  その痕跡として須坂市小河原には、今も高低差が3~6メートルにもなう段丘崖があります。ここでは、小河原をめぐって昭和前期までの千曲川の流路跡を探り、河道の変遷を考察します。


◆小河原の地形 千曲川本流がつくった河岸段丘崖◆



小河原の往古の千曲川の河岸段丘崖: このあたりが高低差が一番大きい場所で、
舗道路と水田地との比高は2~2.5m、 道路の左手(東側)の屋敷地との比高は3~4mほど



▲段丘崖上の風景: この樹林の南に小河原の街並みが続く


▲小河原の左願寺跡から小島地区に下る坂道


▲段丘崖を支えるコンクリート擁壁は高低差3メートル近くある


▲段丘崖を覆う藪。道路は一段上の段丘上を通っている


▲石垣の間の石段は、江岸寺にのぼる参道


▲上野段丘との高低差は4メートル以上もある


▲上野段丘上にある家並みの屋敷地の基盤は石垣で支えられている


▲八木沢川から流れ落ちていた滝の跡。小さな谷間となっている。


▲右手の草の小径は滝の流路跡らしい


▲高津秀太郎美術館から北に続く河岸段丘崖を見渡す

 須坂市福島、相之島の古老に聴取したところ、須坂の千曲川東岸の地形は、この50年余りで大きく変化したという。
 1960年代後半~70年代にかけて農業用水路として整備された八木沢川は、現在、この段丘崖の西側を流れて北相之島で千曲川に合流する。しかし、それまでは、小河原の北で松川と合流し、そこに百々川も流れ込んで、小島地区には広大な沼地湿原が形成されていたという。
 しかし、千曲川水系の過去の水害と密接に結びついた経験や地形に関するこのような知見は、現在ほとんどまったく顧みられていない。郷土史家たちもこのような歴史と地理の知見を取材・共有し、次世代に継承しようとはしていない。実に残念なことだ。

■小河原の河岸段丘崖地形■

  須坂市小河原には、南北およそ800メートル以上も続く千曲川の河岸段丘があります。太古から1960年代はじめまでに形づくられた地形です。
  現在、堤防のなかに収まっている千曲川の主流(本流)からは東に約2.2キロメートル離れています。そして、この地区の古老の話では、1961年の大洪水まで、千曲川の最主流(本流)がこの地の河岸段丘崖を洗って流れていたそうです。
  2019年に破堤による氾濫で大きな水害を被った長沼の人びとを含めて、現代の人びとのほとんどは、わずか70年足らず前の、そういう水系の歴史を知らずに暮らしています。昭和中期からの国の治水政策が、現在にいたる千曲川本流と堤防の管理の仕組みを築いたのですが、そのことが先頃の長沼の深刻な破堤水害の大きな原因のひとつだったということを。


段丘の急坂の上に農家の古民家がある

■往古の小河原の水系と地形■

  私は『信州まちあるき』のための取材で、長沼を皮切りに福島、中島、井上、村山、相之島、小島、小河原を順を追って取材探索してきました。ここでの記事は、各種資料はもとより、取材のさいに各地区の古老たちから聴取した経験や歴史を素材としながら、また私自身が歩き回って地形観察をおこなったうえで、この記事をつくっています。
  小河原地区では、段丘の西に広がる低地水田地帯と最上部の河岸段丘の地面とのあいだの高低差は、平均で4メートル、最大で6メートル近くにもなることがわかりました。水田がある低地から一段上がった段丘面に集落西端の道路が通っていて、そこからさらに一段崖をのぼった位置に家屋の敷地があるので、小河原は二段の段丘になっています。
  ちょっとした目立つ崖で、太古には断層崖だったようで、断層低地に水が流れ込んで千曲川の流路を形成したものと見られます。
  調査の途次(2022年当時)、地元の76歳の男性にあって、いろいろと話を聞きました。
  ここはやはり千曲川の本流が形成した河岸段丘崖で、昭和前期まで崖下を大きな分流が流れていたそうです。そして、1958年(昭和33年台風21号)と59年(昭和34年台風7号)、61年(昭和36年台風6号)、日本列島全体に大水害があったときに、千曲川が大氾濫を起こして段丘の縁まで水位が上がったため、この地区の西にある低湿地、旧小島村の人びとがこの段丘上に避難してきたそうです。
  千曲川を挟んで長沼の対岸に位置する相之島と比べると、小島村から小河原の段丘下までの一帯は標高が低く、昭和中期まで広大な低湿地帯をなしていたそうです。30年ほど前までは、若穂川田~綿内~福島・中島~村山東~小河原と続く千曲川流路跡には湿田の帯が続いていて、蓮田も帯状に連綿と続いていたそうです。
  1970年代までは、小河原段丘下の低地湿田に人が入ると、腰または胸まで非常に柔らかな泥土に沈んでしまったそうです。そこで、人間の歩幅に合わせて杭を縦横に打ち込んで、碁盤の目のような杭の列をつくり、杭を足場として稲の苗を植え、稲刈りをしたのだそうです。大変に困難な作業だったのですが、数万年間以上も千曲川が上流から泥土や土砂を運んで堆積させたため、ものすごく養分があって肥沃だったのです。苦労して水稲づくりをする意味があったということです。
  八木沢川は用水路整備によって流路が現在の状態に変更されるまでは、小河原の河岸段丘の上を流れ、段丘面から水田地帯に幾筋かの滝として流れ落ちていたそうです。滝は段丘上から水田地帯に続く狭い渓谷を刻んだので、今でも崖の凹みや亀裂として流路跡が残っています。
  段丘崖を支える石垣は、かつて滝のような渓流から屋敷地を守る護岸だったようです。その石垣はあたかも城郭の跡のように重厚です。
  千曲川の東岸では、松川、八木沢川、百々川などの支流群が交錯しながら千曲川に合流していたので、沼地(潟)、沼沢地・湿地を形成していたのだそうです。相之島などの微高地を浮島として残すような形で、中島、村山から小島を経て小布施町飯田辺りまでの一帯は広大な低湿地・湿原をなしていたのです。
  今は松川や八木沢川、百々川は千曲川への注ぎ口が離れていますが、その昔は、相之島の北側でひとまとまりで、絡み合った綱のようになっていたのだとか。
  室町時代後期から相之島から始まって村山、中島へと点在する集落群は、そういう微高地に建設され、周辺の水田開拓の拠点となったようです。


石垣で囲まれた往古の渓流滝の跡らしい

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