北国街道松代通は観音堂の石段参道前で西に折れて香代坂をのぼっていきます。香代坂は、古くは香白坂と記されていたようです。丘陵のずっと上、平出主落の南側の山腹尾根は白坂峠と呼ばれているので、この丘陵全体を「白坂」と呼んだこともあるのかもしれません。
  馬頭観音を過ぎると、旧街道の道筋は舗装農道とはしだいに離れていきます。その道筋を探ってみましょう。


◆香代坂の旧街道道筋を探る◆



▲現在の香代坂を往く舗装農道。この辺までは旧街道の経路はほぼ同じだが、馬頭観音から上では果樹園のなかを通っていた。

▲道路脇、大きな石の上に祀られた馬頭観音。香代坂の名物だった。



▲旧街道は観音山を西に迂回して香代坂の坂に向かう


▲渓流油沢川を渡ると、急坂が始まる


▲左の道が旧松代道の経路で、いったん油沢川の谷間に下る


▲眼下に円徳寺本堂の大屋根を眺めながら坂道をのぼる


▲家並みが途切れると勾配が一気にきつくなる


▲馬頭観音の脇から振り返る。こんな急坂をのぼってきた。


▲旧街道脇の馬頭観音を見上げる


▲黄色の線が、旧街道の道筋だと見られる


▲舗装農道はここでU字形に蛇行する


▲農道よりも少し上の斜面を曲がらずに往く旧街道


▲舗装農道が北信五岳道路と出会う地点を旧街道が通っていたらしい


▲五岳道路を渡ると、旧街道の遺構らしい道の古跡が見つかった


▲小丘を掘り下げて街道を開削したらしい地形


東に観音堂を見ながら坂道をのぼる

  北国街道松代通は、観音山を迂回するように西に曲がり、さらに分岐を西に折れて油沢川を渡り、香代坂に入っていきます。油沢川の谷間に少し下ってからのぼり道になります。そして、家並みが途切れた辺りから上り坂の勾配は一気にきつくなっていきます。
  ところで、油沢川の谷間に下る直前に石道標があります。そこには「右 名勝つゝじ山道/左ハ牟礼道」と刻まれています。西に折れないで北に進めば、つつじ山にいたり、松代道は西に曲がって香代坂をのぼり牟礼宿に行き着くのです。
  まもなく東に観音堂を見おろしながら坂道を往くことになります。南には円徳寺本堂の大きな屋根を見おろすことになります。豊野西町の街並みを振り返って一望しながら、果樹園や野菜畑、草原が続く舗装農道を歩いてのぼっていきます。


香代坂に向かう松代道への分岐を示す石道標

端から上流の油沢川は初冬の渇水季を迎えた

  舗装農道と旧街道の道筋がほぼ重なっているのは、せいぜい馬頭観音の辺りまでで、そこから先では旧街道は農道の右(北側)の斜面を通っていると推定できます。⇒参考記事
  今は観音山の北西の広大な丘陵にはリンゴを中心とする果樹園が広がっていて、そのなかを舗装農道が通っています。しかし、明治以降、農作業用や運搬用の荷車など車両の通行に適合するように地形を改造して道路が建設され、新たに広大な畑作地が開墾されました。急な坂道や大きな起伏をなくすために、農道は大きく蛇行したり、地面が掘り下げられたり、土盛りされたりしたのです。
  こうして、現在の舗装農道は、自然の谷間や丘陵を掘り下げた狭い谷間の底をつづら折れに往く経路となっています。
  これに対して、江戸時代の松代道は、当然のことながら、歩行での通行のための道でしたから、今日のように坂の傾斜が緩い経路にして「車両の安全で効率的な通行」をめざすものではありません。多少急斜面でも、歩行での負担を減らすために、ごくわずかな起伏の尾根や谷間を利用して最短距離を進めるようにつくられていました。したがって、道筋はあまり蛇行することなく、比較的に直線的な経路になっていました。


舗装農道の谷間昭和期の道路建設工事で造成されたか

  現在の舗装農道は、うず高い小丘というか峰を迂回して蛇行して進むので、道のりは2倍以上に長くなっているようです。

  ところで、道路わきの大石の上に置かれている馬頭観音ですが、石は石仏を置くために窪みを施されたように見えます。この石製の観音様は、天保6年(1835年)にこの坂の街道で荷物を運搬した馬方たちが奉納したものだとか。急峻な坂道を荷駄を馬に背負わせて行き来していた馬方たちが、輸送旅の安全を祈願したのかもしれませんね。

  さて、私は舗装農道を歩いて回り道をしながら、段丘上の狭い平坦地を往く北信五岳道路までのぼってきました。すると、舗装農道から10メートルほど東には旧街道が通っていたのではないかという印象の地形を見つけました。
  江戸初期の人びとも、できるだけ短い経路で街道を開削するとしても、やはりできる限り平坦地を経由するように地形の探査や測量をしたはずです。現代の道路建設の土木技術も、江戸時代の人びとと同じような結論に達したということでしょうか。
  私は北信五岳道路に沿ってこの辺りを行きつ戻りつして、ここから先どんなコースを取って丘陵をのぼっていったのだろかと探索してみました。
  すると、古い小径の跡と見られる痕跡を見つけました。おそらく、昭和期の後期までは少なくとも農道としては利用されていたのではないでしょうか。この小径は、小さな切通しになっていて、おそらく小高い丘を開削して街道建設した痕跡だと見られます。
  この小径の痕跡の西側の壇上には、往時は祠または社が祀られていたのではないか見られる平坦地の草地があります。周囲は樹林に取り巻かれています。ひょっとすると、そこには小さな立場茶屋か何かがあったとも考えられます。平坦地で一休みして、ふたたび急斜面をのぼるか、下るかしたのでしょう。やはり急坂をのぼり下りすると、ここいら辺りで一服したくなります。今の私がそんな気分です。


道の痕跡は藪のなかに消えている

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