旧北国街道松代道を北に歩くと横町を過ぎたところで観音山と呼ばれる丘の裾にいたります。 そこで街道は西に曲がり神代坂をのぼっていくことになりますが、曲がらずに直進すると観音堂の石段参道をのぼることになります。 ◆鎌倉時代の創建の観音堂を再建したか◆ |
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▲立町通りと横町通りが出会う地点から正行寺漢音道を眺める ▲観音堂の石段参道の上から北国街道松代道を見おろす |
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主な参照資料: 『史跡「聖林寺跡・同五輪塔群」』 聖林寺大悲閣古跡保存会 編著 ▲立町通りから観音堂を見上げる ▲観音堂への参道石段をのぼる ▲石段途中の脇に残るのは、豊野西小学校別館跡か弓道場跡か ▲石段をのぼると、段丘上の平坦地に出て、石畳の参道を往く ▲何の神様かわからないが神社の社殿。背後に六地蔵がある。 ▲これが安政年間に奉納された六地蔵だろうか ▲観音堂はさらに高い壇上にあって、地盤は石垣に支えられている ▲狭い壇端から観音堂の入り口と向拝を見上げる ▲西側の段丘下から観音堂の側面(棟側)を見上げる ▲1935年の焼失後、1938年に草葺きから瓦葺きにして再建された ▲大乗妙典千部奉納供養塔は庫裏の南側、大日堂前の庭園にある ▲大日堂は、明治期に蚕室を移築して再興したという ▲大日堂脇から裏山にのぼる小径。のぼって左に三十三観音群がある。 ▲尾根峰に奉納された三十三観音石仏群 ▲石仏群の西端にあるのは、観音座像だと見られる ▲飯山常盤の正行寺の本堂と鐘楼 |
■観音堂と聖林寺との関連■ 正行寺観音堂の本尊は、本来は高さ16センチメートルほどの千手観音だそうです。この観音像は、鎌倉時代中期(弘長年間)に創建された油沢山聖林寺の本尊だったと伝えられています。
また、正行寺観音堂の横には大日堂があります。大日如来を祀るお堂ですが、これも聖林寺にあったものをここに再興再建したもののようです。大日如来は、密教における最高の仏で宇宙を統べる如来です。そういう文脈からも、聖林寺の前に密教寺院があったのではないかと想像することができそうです。 ■観音堂と長沼■ やがて寺院はふたたび衰微してしまい、その後1729年(享保年間)、長沼霊仙寺の僧、俊在が現在地の丘に草堂を興して正行寺観音堂としたそうです。すでにこのときには、草堂横の大日堂は再建されていたようで、同じ年、その堂守をしていた長沼善導寺の修行僧、称西が観音堂の振興に寄与したようです。称西は、観音堂前の石塔に観音堂「中興名誉」を担う人物と刻まれています。
これらの僧たちの努力は報われ、観音堂(観音様)の信仰は飯山藩内はもとより水内郡、高井郡の各村に広まったようです。天保期には石灯籠の奉納者として、神代村、蟹沢村、戸狩、壁田、寒沢の団体や住人の名が残されています。
■廃堂からの復興■ 明治維新では廃仏毀釈令によって寺院領地の政府による没収がおこなわれ、さらに祠堂整理令によって檀家をもたないお堂や祠の廃止と敷地収容が強引に進められました。これによって1874年、この観音堂もまた廃堂処分にされ敷地は政府に収容されました。これに対して日本各地で批判や再興請願が政府や県政に寄せられ、1884年に豊野観音堂の再興が許されました。 ■裏山の三十三観音石仏群の奉納■ 観音堂の裏山(尾根峰)の一隅には、三十三観音石仏群があります。これは、西国や秩父などの観音霊場をめぐって拝礼することに代わって、ここで一度に巡礼する供養塔だということです。 |