神代(豊野)観音堂の起源となった油沢山聖林寺(大悲閣)の跡を探索します。
  聖林寺は巨大な寺院で寺域境内は広大でしたが、遺跡として残っているのは観音像を安置した大悲閣という建物の跡です。大悲閣とは、有力な寺院のなかで観音像を祀った立派な堂宇で、いわば大きくて荘重な観音堂を意味します。創建は鎌倉時代と伝えられていますが、この近傍に古代から寺院があった可能性もあるようです。


◆小さな観音像が本尊だった◆



▲大悲閣後の石仏群とその右端(東端)に立つ石塔。古びて刻まれた文字も読めないほど。
主な参照資料: 『史跡「聖林寺跡・同五輪塔群」』 聖林寺大悲閣古跡保存会 編著


▲宇山に続く山腹丘陵。リンゴ畑が多い。


▲石塔・石仏群。このリンゴ畑の奥に聖林寺跡がある。


▲北信語学道路から分岐して丘陵をのぼる道脇に石塔群がある


▲聖林寺跡に並ぶ夥しい数の五輪塔と石塔。これらも古代の密教寺院を暗示。


▲五輪塔(卒塔婆)は往時、主に武家の墓だった。


▲五輪塔は密教修行霊場だった頃からのものか


▲背後の斜面から五輪塔石仏群・石塔を背後の斜面から眺める


▲果樹園の彼方は、千曲川の谷間、その向こうが小布施町


▲柳原寺参道の入り口。聖林寺への参道松並木はここから始まっていた。


▲八雲台の下の小径と樹林。ここに塔頭支院が並んでいたか


▲八雲台にのぼる小径の両脇には塔頭支院が連なっていたらしい。

  聖林寺については、正行寺観音堂の探訪記事でおおまかに書きましたが、ここでもう少し詳しく探索することにします。
  北条得宗家の時頼は、仏門に入り(入道し)ましたが、鎌倉幕府の統治には携わっていたようで、諸国遍歴のさまざまな伝説が残っています。僧形で回国修行しながら、巡察をおこなったことがあるかもしれません、それが各地に来訪したという伝説となっているのです。
  神代村は藤原宗家(=近衛家)の荘園、大田庄に属していて、幕府は1192年(建久年間)に島津忠久をこの地の地頭領主に任命しました。有能・有力な武家で薩摩島津家の祖とも言われています。彼の元の所領、筑摩郡塩田近辺では北条家一門が――おそらくは島津家の支援を受けて――支配していました。大田庄も、塩田と同じくらいに鎌倉幕府の統治にとって重要な場所だったということです。
  したがって、北条時頼の回国巡視の伝説もあながち的外れではないと見られます。彼が来訪してもおかしくない土地だったと言えるでしょう。


石塔の梵字(サンスクリット文字)は「観世音」を示す

  ところで、、時頼が諸国巡回のおりに神代村に授けたとされる観音像は、平安時代から山腹丘陵にあった密教寺院(天台または真言)の本尊だったかもしれません。それを入道して鎌倉の最明寺の僧となっていた時頼が由緒がある仏像と鑑定・認定したのかもしれません。
  佐久市望月の西にある協和地区に807年に創建された真言宗の古刹、福王寺があります。密教修験の拠点で、やはり観音様が本尊となっています。近隣に倉見城跡があって、その城主(領主)は島津家門で、政治的配慮から姓をいち早く倉見に改めたそうです。
  鎌倉幕府は、信濃統治のための――佐久と小県を結ぶ――戦略的要衝、望月の西隣の領主として有力・有能な島津氏一族を配したと考えられます。大田庄も同様に北信濃統治の戦略的要衝だったことから、島津忠久を地頭領主に任命したのではないでしょうか。
  1262年の創建からおよそ200年後、応仁の乱の翌年(1468年)、神代村の北部、山腹丘陵にあった溜め池の2つの堤が大豪雨で決壊したため、大規模な土石流が発生して聖林寺と神代村は壊滅してしまいました。生き残った僧侶たちは四散したそうです。
  それから40年ほど経過した頃、西心(九州の人とされる)という僧侶が神代村に来訪して一宇を編んで住み暮らし、山崩れで失われた千手観音像を探し当てたのだとか。西心は堂を建てて観音像を安置し、15年かけけて聖林寺を再興しました。場所は、油沢川の左岸の高台宇山、現在の聖林寺跡があるところです。
  宇山の少し下には八雲台があって、そこには出雲神社が祀られていました。おそらくは、八雲台も聖林寺の境内寺域となったのでしょう、聖林寺再興から一か月後に出雲神社は丘の下の伊豆毛神社の現在地に移転したのだとか。神仏習合の時代ですから、寺院そのものが原因ではなく、聖林寺が土地の神として祀った神社が再建されたためかもしれません。出雲神社は格式が高すぎて、明治以降のように好き勝手に合祀するわけにもいかなかったでしょうから。


八雲台の高台の景観

  山間地なのに聖林寺の境内は1.6ヘクタールもあったそうで、近隣には柳原寺、正伝院、長秀寺、安行寺、正見院、安養寺、千慶院、永安寺、多宝院、月光寺、桜泉院、泉蔵院の12寺院があったようです。おそらくこれらは聖林寺に帰属する塔頭支院(房)だったと見られます。
  してみると、柳原寺の参道入り口から宇山の聖林寺大悲閣まで道のりで800メートル余りも続く参道沿いに12もの塔頭支院が並んでいたのかもそれません。石村堰用水脇から「聖林寺の並木の松」(松並木)が続いていたと伝えられているそうです。壮観とした言いようがありません。
  しかし、ときは16世紀半ば過ぎ、戦国時代後期、北信濃で武田家と上杉家との勢力争いが激しい頃合いで、聖林寺は戦火を浴びて衰微してしまいました。


大久保池は、土石流があった谷間にあるのか

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