古代から昭和前期まで、豊野町と長沼は大田庄ないし大田郷という広域の統治単位のなかで緊密に結びついていました。 ところが、昭和期の浅川の河川改修・護岸工事や鉄道建設、国道18号建設などによって行政制度や生活文化のうえで分離され、隔たりができてしまいました。ここでは、北国街道松代道の往時の道筋を探ることで、両地区の結びつきの痕跡を見出そうと思います。


◆歴史の成層のなかの結びつきを探る◆



▲三念沢、隈取川、田子川、農業用水路などと合流して、大道橋の直下で浅川は大水量の河川となる

▲国道18号線 赤沼交差点。右方向に進めば豊野にいたる

▲しなの鉄道の線路。同じ豊野町の生活圏を隔てている
  ここでは、とくに昭和期になってからおこなわれた国道や鉄道の建設、そして浅川の改造・護岸工事など、旧豊野町と長沼・赤沼との結びつきを断ち切ってしまった出来事と対照しながら、旧松代道の道筋遺構を探索して、往時の両地区の密接な結びつきを想像します。


▲浅川は水門までは、こんな浅く水量が少ない川だ


▲赤沼と豊野を連結しかつ隔てている大道橋。浅川と支流群の合流地。


▲自然石平面に文字を刻んだだけの馬頭観音。旧街道沿いの遺物か。
 長沼宿から神代に荷駄を運んだ馬方たちは、ここで祈りを捧げただろう。


▲旧街道遺構に沿って建設されたと思しき舗装道路


▲緩やかなカーブの右脇の三角地に並ぶ二十三夜塔と庚申塔


▲2基の石塔の間に桜が植えられ、背後にはツガの生垣


▲旧街道沿いに似つかわしい古民家が道路の北側に残されている


▲旧街道とほかの道が合流する不思議な五差路


▲少し先で旧街道の経路は鉄道で遮断されている


▲線路の向こうに見えるのは多賀神社の樹林
 すぐ目の前に見える多賀神社には、すぐ右手にある跨線歩道橋で向こう側に渡って参拝します。


▲豊野駅前(北口近く)にある子育て地蔵尊


農業用水路の合流地水門

  このサイトの「長沼をめぐる旅」「赤沼の旧街道沿いを歩く」では、旧街道が横断歩道橋の辺りまで通じていたことを見出しました。しかし、国道18号が長沼(9赤沼)から神代に向かう道筋を断ち切り、しかも旧街道の痕跡をすっかり消し去っています。そして、同じ旧豊野町のなかでも、しなの鉄道(旧国鉄)の線路がその南側と北側の集落を生活圏として隔てているように見えます。外部からここに取材に来た私は、線路があるだけで、心の隔たりができてしまっているように感じました。
  さらに、昭和期から平成期までの行政区としての豊野町と長野市赤沼とは浅川によって境界を仕切られていました。
  江戸時代に瀬替え(流路変更)された浅川は、堤防も護岸設備もなく、豪雨時を除くと、ことさら渡河が話題になるような水量ではなかったようです。ところが、明治以降、とりわけ戦後(昭和中期)の水田開発と耕地・圃場整理、用水路建設、また三念沢、隈取川、田子川、農業用水路との合流によって、浅川は大道橋の直下から――大がかりな堤防と護岸壁をともなう――大水量の河川となっています。大道橋は高い堤防を跨ぐアーチ型の巨大な橋となっていて、豊野と長沼とを心理や視覚の上で遮断する構造物となっています。

  さて、大道橋を渡ってすぐに右に曲がりさらに左に折れて北に向かう道、これが旧松代道の遺構に沿ってつくられた道路だと思われます。60メートルほど進むと道の右脇に覆い屋のなかの馬頭観音があります。やはりこの道筋が旧街道の跡のようです。


旧街道の道筋を横切る県道399号。これを渡って北進。

旧街道と交差する住宅地の道

  ほぼ北に向かってきた旧街道は緩やかに左(北西向き)に曲がります。その右脇(北脇)に二十三夜塔と庚申塔が並んでいる三角地があります。近隣住民は史跡として大切に保存してきたようで、2基の石塔の間には桜が植えられ、廃義にはツガの生垣が施されて、角地が祈りの場として守られてきたことがわかります。やはり、この道筋が松代道の遺構であることを確信しました。
  そこからおよそ60メートル進むと、不思議な五差路となります。戦後にできた県道399号の古い方の道路や旧村道などが交わっているところで、合流地のロータリー(辻広場)のようです。昭和期に国鉄信越線ができるまでは、神代立町通りは、この五差路まで通じていて、この一帯はそれなりに繁華な商店街だったのかもしれません。
  しかし、鉄道建設後は立町通りは線路で断ち切られてしまい、線路の南側は豊野の商店街と切り離され、経済的な繁栄から取り残されてしまったように見えます。とはいえ、平成期になると郊外に大型天を中心とするショッピングセンターができて、豊野の商店街もすっかり衰退してしまいましたが。


旧街道は中央の道を往く

  鉄道線路を跨線橋で渡って豊野駅北口側をめぐりました。駅の西側に子育て地蔵尊堂があります。その手前脇には「流死人菩提碑」があります。これは1742年に起きた「戌の満水」のため千曲川に流され多賀神社の丘に流れ着いた多数の犠牲者を供養するための碑だそうです。
  長沼、三才、石村など近隣の住民も、犠牲者の埋葬し菩提を弔うために協力し合ったのでしょう。


石造りの地蔵尊

地蔵尊堂前から多賀神社を眺める

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