神代山柳原寺は、寺伝では1631年、隣の石村にある長秀院の住職、尊益が退隠して開創したとされていますが、本来は鎌倉時代に創建された聖林寺の塔頭支院だったようです。旧豊野町で聖林寺の衣鉢を継いでいるのは、観音堂だけではないのです。
  16世紀の中葉には、柳原寺を含む12寺が聖林寺の参道脇に並んでいたと見られ、近年まで柳原寺の入り口にあった松は、神代村では「聖林寺の並木の松」だと伝えられてきたそうです。


◆寺の歴史の原点を探る◆



▲参道中ほどから本堂を眺める。参道右側に見えるのは萬霊塔、六地蔵、石段脇には稲荷社石祠。

▲裏山の墓苑から本堂などを眺める。脇には観音堂、禅堂・庫裏だったとみられる建物もある。



▲神代山柳原寺の参道入り口の門柱


▲門柱前の石村堰と旧飯山街道。少し先に聖林寺参道入り口跡がある。


▲参道脇に並ぶ自然石の庚申塔や石仏


▲蓋殿のなかに並ぶ六地蔵


▲禅宗寺院に似つかわしい石段脇の稲荷社石祠(右の蓋殿内)


▲石段の上、本堂前から参道を振り返る


▲大きくはないが非常に端正な造りの本堂


▲本堂の屋根は寄棟の美しい造りだ


▲境内西端にある茅葺家屋は古い禅堂それとも庫裏か


▲観音堂と見られる小ぶりの堂舎


▲本堂の東脇にはまだ新しい庫裏客殿(住居棟)

■江戸前期以降の来歴■

  寺伝によると、この寺は1631年(寛永8年)、石村の寺院、長秀院の4世住職、尊益が退隠してから開創したそうです。その後、衰微したようで、1709年(宝永年間)に近隣の有力家門、横地弥兵衛が田地を寄進して中興開基となったそうです。1847年の善光寺地震で堂宇が倒壊し、1850年(嘉永年間)に再興されたのだとか。現在、境内に残る本堂、観音堂や庫裏または禅堂だったと見られる古い茅葺家屋は、その頃の建築と見られます。
  寺域境内内には古い建物がいくつもありますが、残念なことにこれらに関する史料はないようで、由緒来歴はわからないようです。柳原寺の歴史についても同様なようです。そこで、伝承や史料をまじえながら、私が勝手にこの寺の起源由緒について想像します。


六地蔵蓋殿脇の馬頭観音

■聖林寺の支院(房)だった■

  地元の聖林寺大悲閣古跡保存会が発行している資料『史跡「聖林寺跡・同五輪塔群」』によると、1524年頃に再興された聖林寺の近傍には、柳原寺、正伝院、長秀寺、安行寺、正見院、安養寺、千慶院、永安寺、多宝院、月光寺、桜泉院、泉蔵院の12寺院があったということです。これらは聖林寺の塔頭支院(房)だったようで、柳原寺の東脇の小径がその参道であったようです。
  石村堰の畔には少なくとも昭和末まで老松が立っていて、それが「聖林寺の並木の松」だと村では伝えられてきました。この参道沿いには、上記の12の支院房が連なっていたと考えられます。
  ところが、聖林寺とこれらの支院房は、武田家と上杉家との北信濃をめぐる戦役で戦火を浴びて焼失したか、あるいは戦禍を避けるためにほかの村に移転したようです。
  また、旧石村の長秀院は、聖林寺の支院としての長秀寺の衣鉢を受け継いだ寺院だと見られます。長秀院の寺伝にあるように、長秀法印が石村粟野神社の近傍に一堂を建てたのが創建の発端となり、のちに聖林寺の支院となったのではないでしょうか。柳原寺は戦禍で失われて現在地近くに遺構が残されていて、およそ80年後、長秀寺の住職が退隠後に跡地に再建したのかもしれません。
  圓徳寺の塔頭格となった正伝寺は、本来は聖林寺の支院、正伝院だったけれども、戦禍で失われたか衰微したかしたものを、1572年に圓徳寺の境内に堂宇を建立して復興したものだと伝えられています。さらに赤沼の浅慶院は、前身は聖林寺の支院だった千慶院で、16世紀後半に長秀寺(長秀院)とともに石村に逃れて、その支院格となり、18世紀に赤沼大田神社脇に寺号を変えて移転したとも考えられます。寺号の千慶院を浅慶院に変えたのは、音が同じからで、さらに遜ってのことだと考えられます。
  戦国末期から江戸時代にかけて、失われたり移転した寺院が、寺号のうち「寺」を「院」に変えたり、その逆にしたり、同じ音の別の漢字に変えたりして、再興・再建される事例はしばしばあったようです。もちろん、史料記述や言い伝えでの誤りや変化もありえますが。

  聖林寺は、鎌倉時代の1262年に、出家していた北条時頼が諸国巡行の途次、神代村に小さな千手観音像を授けたことが機縁となって、これを本尊として七堂伽藍を備えた油沢山聖林寺という大寺院が創建されたのだそうです。
  ところが1468年(応仁年間)、上の山腹にあった堤が豪雨で決壊し山津波(土石流)が起きて、寺院は壊滅してしまったのだとか。およそ半世紀後に、僧西心が宇山に再興し、その後、隆盛をきわめたものの、武田家と上杉家との川中島合戦の戦禍を浴びて衰微してしまったそうです。

  柳原寺参道近くの石村堰から八雲台を経て宇山まで聖林寺の参道があったとすると、柳原寺は往時の聖林寺の塔頭支院としての所在地あるいはその最近隣に再興されたのですから、聖林寺の由緒来歴の手がかりともなるので、その歴史的価値が非常に高い存在です。


墓苑から、心惹かれて古い茅葺堂宇を眺める

  正行寺観音堂もまた聖林寺の衣鉢を受け継ぐものとして再建された寺院ですが、私としては、現存する柳原寺ならびに長秀院とともに神代と聖林寺の歴史のなかに総合的・系統的に位置づけて考究すべきだと考えます。

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