塩田平・上田平は日本一の晴天率を誇っています。言い換えれば、降水量が少ない(年間900ミリ前後)ということで、古くから農業用水の確保には大きな障壁がありました。
ところが、江戸期には「塩田三万石」といわれ、上田藩(真田家の時代にはおよそ6万石、その後は4万石弱)の農産収入のかなりの部分を塩田が占めていました。
◆ため池と仏教文化◆
少雨地帯で豊穣な農業を支えたのは、多数のため池でした。
ところで、「寡雨の地帯に農業用のため池をつくる」といえば、空海、弘法大師が思い浮かびます。
空海は中国留学中に、少雨・乾燥地帯での灌漑技術、ため池とか水路づくり、用水法などの先端的な農業土木技術をも研究してきたのでしょう。塩田にため池づくりの知識と技術を伝えたのは、弘法大師(と弟子たち)だと伝えられています。
この一帯に現世利益を追求する真言宗や密教の影響が強かったという説にも、うなづけます。
平安期の塩田での寺院創建に関する由緒には、空海との深いかかわりが伝えられています。
塩田の南端を画する独鈷山(標高1266メートル)の支峰には、「弘法山」という名の山があります。
その弘法山の山麓には、中世の塩田城の跡が残っています。
◆武士の時代◆ 塩田・上田は、平安時代から信濃でも最重要の軍事的・経済的要衝と位置づけられていました。
その後、鎌倉、室町、戦国時代をつうじて、塩田平は信濃国でも最有力の武将の城下町だったといいます。
鎌倉幕府は、塩田統治のために、幕府でも最有力の武将を派遣していました。なかでも有名なのは、のちに薩摩藩主となる島津家です。
さらにのちの戦国時代、武田信玄は、上田塩田一帯を支配していた村上家門を打ち破ると、塩田城に最も信頼を置いた武将を代官として派遣し、信濃の国支配の要としました。
やがて徳川幕府の政権になると、上田城に真田家を配置して、塩田の城砦は廃城となりました。
とはいえ、塩田そのものは幕府の直轄領としました。それだけ戦略的な位置づけが高かったということです。
今でも、塩田の庄には、古い由来を持つ地名が残っていて、信濃で最有力の城下町であった名残をとどめているといいます。
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