池の尻集落に暮らす人に聞いたところ、池の尻という地名は、その昔、ここが大きな池の畔だったことからつけられたそうです。今回の旅は、その集落をめざして歩きます。
  現在の行政区割では、池の尻は上松町の南東端で、上郷は大桑村須原に属しているので、私たちは村と町との境界を越えて往くことになります。もっとも、江戸時代の街道跡を訪ねる旅には、そんな現在の行政上の地区割は何の関係もありませんが。


◆往古の池はどんな形だったのか、が気になる◆



池の尻集落を往く旧中山道: 国道法面、土手下の道が旧街道の遺構だという



▲国道から左に分岐して野道となる。往古の風景を想像できそうだ。


▲小径の左脇にはすっかり荒廃した住居の跡。昭和前期のつくりか。


▲道から近いところに木曾川の河床と川面が見える


▲右手が国道で、野道は3メートルくらい低い川岸を往く


▲山麓斜面の上の土蔵がある辺りを街道が通っていかもしれない


▲畑の跡の草地を集落に向かって降りていく


▲右手は土盛りされた国道の法面土手


▲旧中山道の道標のところから舗装されている


▲窪地を利用した養魚池


▲棚田の畔縁から集落西端を振り返る


▲集落の中心部はこの辺りで、右の土手は国道の法面。


▲伝統的な本棟出梁造りの町家が並んでいる


▲旧街道を挟ん主屋ので向かいに漆喰壁の土蔵がある


▲集落から北にのぼる旧街道。段丘の上で国道と交差する

◆川縁の遊歩道を歩く◆

  上郷の集落と神明社の境内の下を旧中山道が通っていたらしいのですが、遺構も痕跡も鉄道建設で失われました。仕方がないので、国道19号に戻ってしばらく木曾川沿いを遡上することにしました。
  すると800メートルほど進んだところで、国道から左に分岐する野道を見つけました。中山道の本道あるいは脇道だった痕跡かもしれません。道の左(西側)は木曾川の河床です。
  野道に入った左脇には荒廃が進んだ廃屋が2棟ほど続いています。この辺りで木曾川までの距離は50メートルほどで、道を進んでいくとどんどん河床が近づき、一番近いところで30メートルを切っています。
  ということは、この辺りは木曾川の流れに近すぎて、大雨の後で増水した場合には、相当に危険な場所です。ダムがなかった往時、中山道がこんな危険な地点を通ったのか、かなり疑問になります。まあ、川の流路や岸辺の状態は160年も経過すると、それなりに変わっているのでしょうが。


川岸の針葉樹林の脇を通る野道


数分も歩くと野道は終わり、国道に合流する

  国道の西側の野道は300メートル余り歩くと終わり、国道に合流してしまいます。ここは木曾川に近くて水害の危険性が高かったでしょうから、中山道はもう少し標高の高い山麓を通っていたかもしれません。
  この野道のように岸辺を往く道があったとすると、対岸に渡るための渡し船乗り場に通じる道だったというでしょう。街道の本道は、現在の鉄道線路の辺りか、それよりも高い地点を通っていたと推定する方が正しそうです。
  池の尻集落の住民によると、往時の中山道は鉄道の東側に迫る尾根を横切って降りてきて、池の尻に降りてきたそうです。路盤が嵩上げされた国道19号が建設されるよりも前は、山林の斜面を下って来る中山道の遺構があったようです。
  鉄道を斜めに横切って下って来る野道の跡があり、これが往古の道の痕跡だと見られます。ただし、現在は通行禁止です。


尾根から下ってきた旧道の跡(線路で通行禁止)

◆昔日の面影を残す池の尻の家並み◆

  山裾を降りてきた旧街道は、今は廃業した食堂の脇――国道の法面の下――を通る土手下の草道となり、東に進むと、中山道の道標の横――ここで舗装道路となる――を通って集落の家並みに入っていました。生コン会社の近くを通る舗装道路は旧街道の遺構ではありません。
  
  この集落には、本棟造りの結構で通りに面した出梁造りとなっている古民家(または伝統的な造りの家屋)がいくつも保存されています。
  いくつかの古民家は、建材として使われている木材から推定して、幕末から明治前期に改築または修築された建物ではないかと見られます。屋根裏(二階)の結構から見て、養蚕業に対応した形になっています。


集落西端の家並み。ここが往古の池の縁だったか。

  さて、ここで気になっている「池の尻」という地名の由来になった地形について想像をめぐらせてみましょう。
  池の尻は、木曾川が大きく蛇行してできた小さな河岸段丘上の氾濫原です。この辺りの木曾川は蛇行を繰り返していますが、池の尻は、北北西からの流路が南西に曲がるところで、流水の破壊力が尾根裾にぶつかって浸食し、そこに上流からの土砂を堆積させて形成した川縁の段丘面です。
  三日月形の段丘面平坦地で、弧の長さが400メートル、幅が80メートルくらいです。ここに大きな池があったと伝えられています。今でも人工的につくられた小さな魚養殖池があります。
  ここに池が形成された経緯は2通り考えられます。ひとつ目は、木曾川が増水氾濫して水が引くさいに、川縁に膨大な土砂を残して自然堤防をつくったため、段丘面平坦地は窪地になって氾濫した水が大量に残されて池が形成されたというシナリオ。東側の後背地の谷の上から雨のたびに沢が水を運んできたので、水が溜まり池は干上がらずに長期間存在することになった・・・。
  ふたつ目は、豪雨の後、後背地の谷の沢が「蛇抜け」(土石流)を引き起こして、河岸平坦地の川縁に堤防のような土砂の土手をつくり、その後、谷川の水が溜まり続けて池となったというシナリオ。
  もちろん2つのシナリオが重合した可能性もあります。いずれにせよ、やがて木曾川の増水氾濫あるいは谷沢の土石流があって、自然堤防を壊して、池の水を木曾川に流し落して、現在のような地形となったのでしょう。
  その池は、長径が100メートル以上の楕円形ではなかったかと想像できます。池の北東側、つまり中山道の江戸寄り(下手)にあった岸辺を「池の尻」と呼んだのではないでしょうか。


国道との交差点から集落を振り返る

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