須原の北側の上郷から糸瀬山の谷を越えて上松町池の尻に向かう旧中山道の痕跡は、いまではすっかり失われています。鉄道や国道の建設で地形が変わったということもありますが、何らかの理由で廃道になったためという理由が大きいようです。 ◆谷越えの道の痕跡を探る◆ |
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上郷の桝養魚池の跡。今は操業していないが、水源から水が循環している。向かいの谷底が木曾川。 江戸時代の中山道は、この池の東側の縁(高道)を通っていたのかもしれない。 |
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▲上郷神明社の大杉を北に見ながら林道をのぼる ▲神明社の背後(東)にある段丘崖の上の平坦地 ▲神明社の背後の山腹を往く林道 ▲神明社の背後の林道脇に並ぶ石仏群。阿弥陀三尊、馬頭観音など。 ▲竹林を沢沿いにのぼる細道。その先に小さな木橋がある。 ▲沢を渡る小さな木橋。対岸に古い細道が続いている。 ▲林道脇のの小さな仏は馬頭観音で、林道に背を向けている ▲里道に向かうこの草道が旧中山道の遺構だと見られる ▲豊富な水を利用したマス養殖池の跡。池跡は大小7つはある。 往古、池の尻には大きな池があったというが、ここにこれだけの池を満たす水源があるので、その水源が大きな池をつくり出す水量を供給したということになるだろう。 ▲池の畔に立つエドヒガンザクラの巨樹樹。齢は500年以上か。 ▲樹齢は500年以上、ひょっとすると1000年近いかもしれない ▲▼じつに広壮で立派な木曾地方の伝統的なつくりの古民家だ ▲藪の中で途絶える野道は旧中山道の痕跡に沿ったものらしい。 藪野原を突っ切って谷を下ると池の尻集落の手前に出る。 ここから右(東向き)に折れて山腹をのぼる林道があるが、これは尾根峰を往く木曾古道に連絡するものだった。言い伝えでは、木曾古道をつうじて奈良の都に通じていて、山岳信仰の修験者たちが木曾古道を行き交ったという。 |
◆失われた旧街道の痕跡を求めて◆ 須原宿から上松宿までの旧中山道は、急峻な山腹斜面が両岸から木曾川に迫る狭い峡谷を往きます。そこに明治以降に鉄道と国道が建設されたため、古い街道の遺構はすっかり埋もれてしまいました。
私は上郷神明社の南側で鉄道の下のトンネルをくぐって谷間をまず南に迂回してから、神明社の背後の山腹を北に往く林道を辿ることにしました。 500メートルほど進むと、小さな沢に出会います。林道の東脇に沢沿いの竹林をのぼっていく細道があります。辿ってみると、沢の勾配が緩やかになったところに小さな木橋が架けられています。これは、沢越えをするための旧村道の迂回路だった可能性があります。もしかすると、旧中山道の脇道の遺構かもしれません。
石仏群からおよそ1キロメートル進むと、斜面は緩やかになり林道は山林から抜け出て開けた場所に出ます。左手(西側)の斜面の下にJR中央線の鉄道線路と国道19号を見おろすことになります。
林道をさらに200メートル進むと、マス養魚池の跡があります。跡と呼ぶのは、すでに操業を止めているようで、魚影は見当たらないからです。 エドヒガンザクラの老巨樹は、養魚池から古民家にのぼる小径の脇に立っています。長野市小市で樹齢600年――「神代桜」と呼ばれ、一説には樹齢1000年以上――とされるヤマザクラを見たことがありますが、それとは比べ物にならないほど巨大で元気です。
根元から2メートルほどの高さまで幹の芯部は腐朽して空洞化しています。表皮は生きていて、何と幹の上方から気根のような肢が数本、地面に伸びて、若々しい活性根をつくっています。あたかも樹木医が内臓バイパス手術を施したかのようです。 |