■茶屋町から仲町まで■
二階の丈が低い造りが伝統的な町家の建築様式だ
宿場の最も一般的・平均的な町家は間口3間だった
とりあえず、須原宿の西端の茶屋町から仲町まで探索してみましょう。茶屋町とか仲町・本町という街区名は、江戸時代にはなかったはずです。上町・中町・下町という街区があったようです。
上の写真は幕末からの仲町の町家で、須原宿で最も標準的で一般的であった間口の町家を表しています。間口は3間(5.4m)です。本陣の間口が10間(18.2m)で、脇本陣が9間半(17.3m)、そのほか有力な旅籠や店舗などは間口7間(12.6m)ないし8間(14.4m)でした。一方、奥行きは家屋の背後の地形によって違っていて、本陣や脇本陣、旅籠などは20間~25間、つまり40メートル近くかそれ以上もあります。
屋敷地の背後に山腹や段丘が迫っていれば、奥行きは小さくなります。ただし、奥行きの深い短冊形の屋敷地を2つに割って、表通りの店舗町家の裏手にさらに別の1棟の居宅がある場合もあります。
このように、宿場街では街道に面した間口が狭く、奥行きが深い短冊形の街割り(敷地割り)になっていました。そして、各住戸の年貢(税賦課)は間口の大きさに比例していたので、富裕で有力な家門が間口と奥行きが大きな敷地を保有していました。
また、表通り側は人の往来が頻多なので、そこにできるだけ多くの店舗を並べて客商売にチャンスを均等に与えて、街の繁栄をはかるため、という理由もあったようです。
電柱辺りまでが茶屋町区だろうか
宿場の西端から200メートルほどの地点から東の景観
ここまで歩いてきて観察した須原宿の古民家について特徴をまとめてみましょう。
今の呼び名で茶屋町と仲町には、幕末から明治前期に建てられた古民家が多く残されています。江戸時代の須原宿で最も標準的だったのは、間口3間という町割り(敷地割り)でした。
とはいえ、富裕で有力な旅籠は、間口6間、7間、8間という間口のものが多くあって、この宿場は相当に豊かで発達した街並みをなしていたようです。そういう旅籠は、丈の高い二階をもっていたのに対して、木工職人や小店舗は厨子二階造りで二階の天井が低く、軒近くでは高さが2尺ほどしかなかったようです。したがって、屋根裏を物置として利用することになっていたようです。
街道に面した小店舗は間口が3間で奥行きも4間のほどの広さで、店貸しされていたようで、裏手に家主が住んでいたようです。資産があまりない者でも、技術や商才があれば職人工房や店を営むことができたわけで、それだけ商業的に発達していたと見られます。家主の家族が店舗を営む場合もあったでしょう。
やはり、定勝寺という有力で有名な禅刹があった門前町だったからでしょうか。
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