旧中山道木曾路には、険しい山間を往く街道にもかかわらず、「間の宿」というものがあったことは伝えられていません。もとより間の宿は幕府が公認または指定した公式の精度ではないので、公式の史料には記録されないこともあるでしょう。
  とはいえ福島宿から宮ノ越宿まで8.5キロメートル余り道のりがあることからすると、往時、かなり発達した街集落だった原野は、旅人や輸送業者が休泊する中継拠点だった可能性は大きいと見られます。


◆間の宿だったかもしれない◆

 
原野集落の南西端には丘尾根が無佐沢川沿いに延びていたが、明治時代に尾根を切通して街道の起伏を均した。

伝統的な出梁(出桁)造りの町家がまだいくつも残っている原野の街並み


  原野は無佐沢川と松沢という2本の河川に挟まれた丘陵の上に形成された、長さ300メートルほどの集落です。

▲無佐沢川の河岸段丘をのぼったところから街並みが始まる


▲かつてはこの道の中ほどを用水堰が流れていたのだろう


▲出梁(出桁)造りの町家が軒を連ねる区画もある


▲この家並みは昭和前期頃に修改築されたものかもしれない


▲二階を支える桁が一階よりも外に出ている造り


▲二階部分の丈が低いことから、明治期以前の造りか


▲端然と堡損されているが、この町家は無住かもしれない


▲林昌寺への桟道前から街並みを振り返る

 木曽町の上田から原野を経て宮ノ越までの木曾川左岸には、西から天神川、正沢川、無佐沢川、松沢、尻平沢が南側の山間から流れ下り木曾川に合流しています。これらの河川は往古から蛇抜け(土石流)を頻発してきました。
 そのつど大量の土砂を上流部から運搬してきて木曾川左岸に堆積してきました。その結果、木曾川左岸のところどころには小高い丘陵というか塙が形成されました。
 このなだらかな小丘の列が木曾川左岸の氾濫を相当程度に抑制する堤防の役割を果たしてきました。平安時代にこの地にいち早く農耕地の開拓と集落の建設が進んだのは、そういう地理的な条件があったと考えられます。


無佐沢川の谷間からのぼると原野の街並みに入る

◆木曾源氏発祥の地という伝承◆

  中山道沿いの上田から宮ノ越までは木曾川左岸に幅300メートル前後、長さ6キロメートル近くにおよぶ河岸段丘の平坦地が続いています。そして、天神川と正沢川に挟まれた木曾川河岸丘陵には、平安後期から中原兼遠とう豪族が居館を構えてこの一帯を統治していたと伝えられています。
  木曾路のなかでは例外的に恵まれた地形環境にあるこの地には古代から荘園が開かれ、中原氏は官位を得て京洛とも強く結びついて農耕地の開拓を指導し有力貴族の荘園を統治していたものと見られます。
  木曾川が刻んだ谷間の平坦地は肥沃で、年間を通じて降水量が多く水源に恵まれていたうえに、周囲の山岳からは木材などの山林資源が獲得できたということから、古代から水田や農耕地の開拓が進められていたはずです。
  であればこそ、中原氏という有力豪族が台頭し、義仲を盟主とする木曾源氏を庇護育成することができたのでしょう。
  ところが、この地には平安から鎌倉・室町前期にいたる時代の史料・記録は残されていないようです。しかも、古代から中世におよぶ時代の痕跡もほとんど残っていません。上記のことがらは、あくまでごく断片的な伝承からの推測にすぎません。

◆木曾路における休泊・中継拠点◆

  とはいえ、この一帯を歩いて探索してみると、肥沃な平坦地をなすこの一帯は、室町後期から江戸時代初期にかけて本格的に展開した農耕地の開拓と集落建設によって、表土はつくり変えられ往古の史跡が失われてしまったのだろうと推定できます。埋蔵文化財の発掘調査もこなわれていません。
  さらに室町後期から戦国時代にかけて、元来は上野(群馬)を拠点としていた豪族武将、藤原系の木曽氏が筑摩郡から大木曾地方(木曾北部)に所領を獲得し、小木曾地方(木曾南部)に勢力を拡大したと見られています。
  古代から鎌倉・室町期までの荘園や集落の遺構や廃墟の上あるいは近隣に木曾氏が城砦や居館、統治の拠点を築いて、農耕地開拓や村落建設を指導したようです。そのさい、恵まれた地形環境からして原野が木曾氏の統治の拠点のひとつになったことが容易に推察できます。

  そして戦国末期から江戸初期にかけて、徳川家は覇権の掌握と確立のために、戦後時代の軍道をもとにして木曾路に街道・宿駅制度を構築しました。
⇒参考記事 木曾路の歴史①中山道の歴史②
  江戸初期に戦国時代の軍制や軍道に倣って建設された中山道ですが、徳川の平和のもとで経済活動を媒介する物流装置に転換していき、商人や輸送業者、一般の旅人は、幕府の街道制度とは別に、宿駅と宿駅との中ほどに休泊や中継の拠点を形成していきました。そういう仕組みのひとつが「間の宿」です。

◆城下街ではなかったか◆

  ところで、すでに見たきたように、原野は古代から肥沃な穀倉地帯で豊かな集落があったと見られ、それゆえまた鎌倉~室町・戦国時代に軍事ならびに統治の拠点となりうる地形であるにもかかわらず、この一帯には城砦や居館などの痕跡(史跡)に関する史料や伝承がありません。
  ことに室町後期から戦国時代に木曾谷を支配した藤原流木曽氏の城館や城砦の痕跡が見られないのは、あまりにも奇異といえます。むしろ、おそらく原野は室町後期から戦国時代に藤原系木曾氏の城下街だったというのが私の印象です。
  三留野や野尻、須原、上松における木曾氏の城館の配置のモデルになったのが原野で、現在の林昌寺の境内が居館の跡地ではないでしょうか。

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