■布瀬川右岸の河岸段丘■
八幡社東側を北流する中沢川とその渓谷
クルマで国道142号を東に走ると、県道44号との分岐から400メートルほど進んだところで、左に分岐する道が旧中山道の遺構です。かつては、八幡宿を通る中山道の路面は2メートル前後の起伏が波打つように連続していたそうですが、現在の道路は拡幅され路面が滑らかに均されて舗装されているので、往時の面影はほとんどありません。
さて、国道から分岐して30メートルほどで、道は二股に分かれますが、江戸時代の中山道は北側の低地を往く細い方の道です。そして、この道には往時の面影が残されています。
中山道と八幡宿は、布瀬川が右岸(南側)に形成した河岸段丘上に位置しています。左岸の背後には御牧原台地が迫っています。虚空蔵山の東尾根から続く布瀬川右岸の河岸段丘の南側は、中沢川によって削られ、細い峡谷が八幡社の東側まで続き、そこで中沢川は流れを北に転じて布瀬川に合流します。ここで八幡宿が位置する丘は断ち切られます。中山道は中沢川の谷間を越えると、東に向かってしばらくのぼり坂斜面が続き、布瀬川と千曲川の谷間に挟まれた広大な舌状丘陵を越えます。そして千曲川まで降りていく道筋となるのです。
小径の脇の3基とも馬頭観音
路傍の石仏観音。近所の人が供え物を絶やさない。
高齢化や過疎化で街道沿いの家屋の数は減ってしまいました。下道の中ほど左脇(北側)には馬頭観音がいくつも並んでいます。これらの石仏群は、この集落の人たちの先祖が奉納したものです。
昭和40年頃まで、各戸が馬頭観音などの石仏を石工に依頼して彫ってもらい、街道脇など先祖伝来の担当場所に奉納建立していました。
勾配のきつい街道坂道沿いの街並み
来し方を振り返ると、虚空蔵山の尾根が見える
■八幡宿の成り立ちを探る■
御牧原台地の南麓には、17世紀はじめに徳川幕府政権によって中山道の街道制度がつくられる以前に、古代から東山道とか鎌倉道などの官道や戦国時代の軍道などがあったそうです。
そして、戦国末期までには、千曲川を船で渡ったのち御馬寄村の北に道を取り、布瀬川北岸の寺尾山(照尾山)の麓にある桑山村、蓬田村を通って、百沢を経由して瓜生峠を越える道があったといいます。寺尾山とは、御牧原台地高原の南東端の尾根の呼び名です。戦国時代に武田家が信濃侵攻のためにつくった軍道は、この経路だったと見られます。この道筋は中山道の前身(最初期の中山道)となりました。
この辺りの土壌は非常に粒子の細かい粘土質で、降水で――雪解け季や梅雨時など――道はひどい泥濘になって、荷駄の運搬はいうにおよばず歩行さえも難しくなったそうです。水はけがきわめて悪く、ひとたびできた水溜まりはなかなか乾燥しなかったようです。
やがて、布瀬川北岸の山麓からだいたい500メートルほど南側のうず高い丘の背――布瀬川の自然堤防上――に、塩名田の渡しから御馬寄村の中ほどを通り百沢に向かう、よりまっすぐな道が建設され、これが江戸幕府の道中奉行が直轄する中山道になりました。泥濘をできるだけ短距離で抜けるためです。そして、山麓にあった桑山村、蓬田村と布瀬川の南にあった八幡村の住民はこの新たな街道沿いに移転させられ、宿場街が建設されました。この宿駅は新たに形成された町なので「新町⇒荒町」と呼ばれました。
この集落の東の入り口近くの丘の上に古い由緒を誇る八幡社がありました。
やがて街道宿駅制度が確立されていくと、上州の中山道沿いにも新町という集落があったことから、この宿場街の住民は八幡社にちなんで「八幡宿」と改称することを願い出て道中奉行から許可されたという伝承があります。
という経緯で、中山道宿駅69次のなかで板橋か宿から24番目の宿場街となりました。
家屋がなくなり空き地が目立つ場所もある
このページの記事で掲載した写真は、八幡宿上町の景観です。
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