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長野県佐久市八幡~蓬田

  旧中山道八幡宿は、小諸市街から南方におよそ5~6キロメートルほど離れた、佐久平の西側に位置しています。御牧原台地の南麓で、千曲川左岸の平坦地です。
  千曲川とその支流、布瀬川に挟まれた広大な谷間のなか、信州中央部の美ケ原・蓼科高原や望月から千曲川河畔にくだっていく盆地平坦部にあります。
  写真:旧八幡宿の東端にある八幡神社の鳥居と随神門。

 
御牧原台地南麓の街道


▲布瀬川右岸の河岸段丘は虚空蔵山の東尾根から続いていて、西から東に降っている。その傾斜に合わせて、八幡の街並みも東に降っている。

  まず八幡宿の地理を見ておきましょう。ここは、古代から官牧があった御牧原台地高原の南麓にあって――千曲川が両岸に形成した幅7キロメートルにおよぶ大峡谷のなかで――布瀬川がつくり出した峡谷沿いに位置しています。山麓の扇状地で平坦地ですが、河川が形成したゆるやかに起伏に富んだ地形をなしています。
  望月宿を出て瓜生峠を越え、さらに百沢集落を過ぎると、旧中山道は平坦地に出て布瀬川の河岸段丘に沿って北東に進みます。そして八幡社の前で進路を東に転じ、しだいに向きを東南東に変えながら千曲川河畔に向かいます。標高約750メートルの瓜生峠から塩名田の千曲川河川敷(標高625メートル)まで、およそ8.5キロメートルの道のりを歩いて120メートルほど下ることになります。


▲浅科中学校の北側から見た八幡宿の街並み遠景: 左が望月宿方面で背後の丘は御牧原台地


▲八幡宿遠景: 画面中央の樹林は八幡神社・高良社の杜。右端の山岳は浅間連峰。

  百沢の東から八幡社の前まで、中山道は布瀬川の流れから300メートルほど南側をほぼ並行する道筋になっています――この間1.5キロメートル。しかし、そこを過ぎると布瀬川は蛇行しながら、そのままだいたい北東方向に流れて千曲川に合流します。中山道と布施川は互いに離れていきます。そのため、中仙道と布瀬川は、それぞれ千曲川に出会う地点は南北におよそ1.5キロメートルも離れてしまいます。
  さて、街道は八幡社の東で布瀬川の峡谷から出て、さらにひとつ上の河岸段丘を越えて千曲川がつくった広大な峡谷に出ることになります。したがって、八幡宿を出ると街道は緩い上り坂になります。この丘陵を越えると、今度は千曲川が形成した谷間の斜面と河岸段丘を降りていくことになります。
  この一帯は、千曲川が御牧原台地と浅間連峰に衝突しながら形成した両岸の広大な峡谷のなか、その西岸にさらに蓼科高原から流れ下る布施川が谷間と扇状地をつくり上げ、そこに緩やかな丘陵が断続する雄大な盆地平坦地なのです。中山道と八幡宿は、虚空蔵山の尾根から続く河岸段丘の上に位置しています。今回は、そんな中山道八幡宿への西の入り口辺りから上町を中心に中町交差点の手前辺りまでを歩きます。⇒八幡宿の町割りと街並みの絵図

■八幡宿上町を歩く■

■布瀬川右岸の河岸段丘■


八幡社東側を北流する中沢川とその渓谷

  クルマで国道142号を東に走ると、県道44号との分岐から400メートルほど進んだところで、左に分岐する道が旧中山道の遺構です。かつては、八幡宿を通る中山道の路面は2メートル前後の起伏が波打つように連続していたそうですが、現在の道路は拡幅され路面が滑らかに均されて舗装されているので、往時の面影はほとんどありません。
  さて、国道から分岐して30メートルほどで、道は二股に分かれますが、江戸時代の中山道は北側の低地を往く細い方の道です。そして、この道には往時の面影が残されています。
  中山道と八幡宿は、布瀬川が右岸(南側)に形成した河岸段丘上に位置しています。左岸の背後には御牧原台地が迫っています。虚空蔵山の東尾根から続く布瀬川右岸の河岸段丘の南側は、中沢川によって削られ、細い峡谷が八幡社の東側まで続き、そこで中沢川は流れを北に転じて布瀬川に合流します。ここで八幡宿が位置する丘は断ち切られます。中山道は中沢川の谷間を越えると、東に向かってしばらくのぼり坂斜面が続き、布瀬川と千曲川の谷間に挟まれた広大な舌状丘陵を越えます。そして千曲川まで降りていく道筋となるのです。


小径の脇の3基とも馬頭観音


路傍の石仏観音。近所の人が供え物を絶やさない。

  高齢化や過疎化で街道沿いの家屋の数は減ってしまいました。下道の中ほど左脇(北側)には馬頭観音がいくつも並んでいます。これらの石仏群は、この集落の人たちの先祖が奉納したものです。
  昭和40年頃まで、各戸が馬頭観音などの石仏を石工に依頼して彫ってもらい、街道脇など先祖伝来の担当場所に奉納建立していました。


勾配のきつい街道坂道沿いの街並み

来し方を振り返ると、虚空蔵山の尾根が見える

■八幡宿の成り立ちを探る■

  御牧原台地の南麓には、17世紀はじめに徳川幕府政権によって中山道の街道制度がつくられる以前に、古代から東山道とか鎌倉道などの官道や戦国時代の軍道などがあったそうです。
  そして、戦国末期までには、千曲川を船で渡ったのち御馬寄みまよせ村の北に道を取り、布瀬川北岸の寺尾山(照尾山)の麓にある桑山村、蓬田村を通って、百沢を経由して瓜生峠を越える道があったといいます。寺尾山とは、御牧原台地高原の南東端の尾根の呼び名です。戦国時代に武田家が信濃侵攻のためにつくった軍道は、この経路だったと見られます。この道筋は中山道の前身(最初期の中山道)となりました。

  この辺りの土壌は非常に粒子の細かい粘土質で、降水で――雪解け季や梅雨時など――道はひどい泥濘になって、荷駄の運搬はいうにおよばず歩行さえも難しくなったそうです。水はけがきわめて悪く、ひとたびできた水溜まりはなかなか乾燥しなかったようです。
  やがて、布瀬川北岸の山麓からだいたい500メートルほど南側のうず高い丘の背――布瀬川の自然堤防上――に、塩名田の渡しから御馬寄村の中ほどを通り百沢に向かう、よりまっすぐな道が建設され、これが江戸幕府の道中奉行が直轄する中山道になりました。泥濘をできるだけ短距離で抜けるためです。そして、山麓にあった桑山村、蓬田村と布瀬川の南にあった八幡村の住民はこの新たな街道沿いに移転させられ、宿場街が建設されました。この宿駅は新たに形成された町なので「新町⇒荒町あらまち」と呼ばれました。
  この集落の東の入り口近くの丘の上に古い由緒を誇る八幡社がありました。
  やがて街道宿駅制度が確立されていくと、上州の中山道沿いにも新町という集落があったことから、この宿場街の住民は八幡社にちなんで「八幡宿」と改称することを願い出て道中奉行から許可されたという伝承があります。
  という経緯で、中山道宿駅69次のなかで板橋か宿から24番目の宿場街となりました。


家屋がなくなり空き地が目立つ場所もある

  このページの記事で掲載した写真は、八幡宿上町の景観です。


布瀬川右岸の河岸段丘と八幡宿の街並み。背景は蓼科山。【蓬田から】▲

国道142号から分岐した直後にまた分岐して旧中山道に入る▲

左側の小径が江戸時代の中山道遺構にできた道路▲

高齢化や過疎化で街道沿いの家屋は減ってきた▲

左端は馬頭観音。この先の上り坂までが旧中山道遺構の道。▲

街道左脇の昭和前期の古民家。無住になって荒廃している。▲

千曲川に降りていく複合扇状地の平坦な斜面の丘尾根上の街並み▲

布瀬川河畔から、水田地帯の南にある八幡の街並みを眺める▲

往時は「上町」と呼ばれたかもしれない家並み▲

昭和初期ないし前期の養蚕向けの総二階造りの広壮な古民家▲

この少し東が中町交差点。ここいらから旧中心街が始まる。▲

以前は商家だったか、二階は生糸紡錘作業用の厨子造りと見られる▲

河岸段丘の縁にある街並みの北端から布瀬川河畔を眺める▲

中山道の前身となった古い時代の道

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