諏訪湖と松本との間にある塩尻峠は、戦国時代、信濃攻略をねらう武田家と信濃守護、小笠原家とがせめぎ合う戦域となりました。壮絶な戦闘が展開し、戦場のひとつとなった柿沢の永井坂には、闘いの後、数多くの戦死者の遺体が残されたのだとか。
  村人たちは、夥しい遺体に深い悲しみと憐憫を抱き、戦場から遺体(首や銅など)を集め、集落郊外の野原に埋葬して弔い、塚を建てたそうです。それが首塚胴塚です。


◆一面の丘斜面は戦場だった◆



▲柿沢集落の東の外れの広大な斜面。ここは永井坂の一角だ。広大な原野が戦場となったらしい。

▲首塚の丘から西方の眺め。塩尻市西条の集落が見える。ここも戦場となったのか。

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▲この小径を南に進む。背後に双体道祖神の辻がある。


▲この道を進むと、旧街道沿いの双体道祖神の辻にいたる
 正面の樹木は柿。この辺りの畑作地にはあちらこちらに柿の木が目立つ。柿沢という地名は、柿畑が多くあったからだろうか。


▲畑中の草地に飛び石を配して、塚への参道としている


▲塚の石塔2基は自然石で、西を向いて並んでいる。
 供物を備える来訪者もいるようだ。傍らには花畑がある。


▲石塔の脇には石盤に霊標(墓誌)のような解説を刻んである


▲背後の丘の向こうにはみどり湖がある


▲石塔越しに長坂を眺める。背景は東山の尾根。

  東山の南西の尾根から西に広がる、柿沢集落を含む広大な斜面は永井坂(長井坂)と呼ばれています。首塚胴塚がある場所は、柿沢の双体道祖神の辻と筋違いとなる小径を南に向けて100メートルほど進み、左折して畑作地帯を東に100メートルほど歩いたところの草地です。


ここを左折して畑作地を東に向かう

  世に伝わる話では、武田晴信(信玄)は佐久を制圧したのち、千曲川沿いに上田小県方面に勢力を拡大しようとして村上義清と衝突し、上田原の戦いで敗れて甲府に退去し、武田家の勢力圏は東信では佐久まで後退し、中信では諏訪湖の南岸まで後退しました。このとき武田家の信濃侵攻を封じ込めようとした小笠原長時は、村上家や仁科家と同盟して塩尻峠を越えて諏訪盆地に攻め込み、下諏訪を支配しました。
  ところが武田信玄は、入念な準備ののち塩尻峠に陣を構えた小笠原軍に奇襲攻撃をかけて、大きな打撃を与えたそうです。迎撃準備をしていなかった小笠原勢は総崩れになり、長時は松本まで逃げ落ちたのだとか。
  小笠原軍の兵たちは塩尻峠の西側斜面である長坂(永井坂)を潰走し、それを武田軍は追撃して蹂躙したようです。で、戦闘が終わった長坂の原野には、首や手足が胴から切り離された無残な遺体がいたるところに転がっていたそうです。
  というような戦史物語から考えるに、長坂の野原に残された遺体は、ほとんどが小笠原勢のものだったということになるでしょう。だいたいは騎乗できない徒士(足軽)で、彼らは松本平や筑摩郡など近隣から徴募された者どもだったのではないでしょうか。信濃の人びとです。
  永井坂は、下諏訪や岡谷から東山の尾根を越えて、塩尻を含む松本平にいたる経路です。そこに信濃出自の兵たちの骸が散らばっていたということになります。柿沢村民たちが耕していた田畑にも、遺体が置き去りにされていたかもしれません。

  柿沢の村人たちは、戦が終わってから集落から出てみると、原野のいたるところに戦死者の遺体が転がっていたのでしょう。戦の惨さを知り、命を失った兵士たちに哀れを感じたでしょう。しかも、多くは松本・塩尻など筑摩郡近辺の出身者と思われる人びとの遺骸です。
  人びとはあちこちから遺骸を集めて、現在地に埋葬(あるいは死臭・腐敗秋がひどいので焼いて骨にしてから埋葬)したのかもしれません。
  もしかすると、あちこちに分散した遺骸はそれぞれ近くにまとめて埋め、ここにひとまとめで慰霊のために塚を建てたのかもしれません。
  首塚胴塚を設けた詳しい記録は残されていないようです。隣の塩尻宿は言うまでもなく、ここから西に1キロメートルも離れていない西条には今でも多くの寺院があるので、兵の遺骸の埋葬・供養にはそういう近隣の寺の仏僧たちも協力したのかもしれません。
  今では首塚の塔の横に、この場所の所以を刻んだ霊標(墓誌)が置かれています。

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