▲中山道以前の塩尻宿があった古町の民家 雀踊りを載せた本棟造り
1604年に幕府が開設した当初(1604年頃)の中仙道は、木曾の贄川から牛首峠を越え小野宿で三州街道と連絡し、そこから岡谷に抜けて下ノ諏訪宿にいたる経路でした。戦国時代までの東山道の経路に沿ったものだったようです。
基礎から諏訪湖まで最短の道のりの街道でしたが、難所険路が多かったので、やがて北に迂回して本山宿、洗馬宿、塩尻宿を通って松本平の南端を回り、塩尻峠を越えて諏訪平にいたる経路に変更されました。徳川幕藩体制の平和のもとで、中仙道は軍用道路そのものとしての性格を弱めて、経済活動としての通商物流(駅逓)とか諸藩の統治を優先する仕組みの街道に変更したものと見られます。
そして18世紀になると、読みは同じですが「中山道」と字が変わりました。
古代に官道として始まった東山道――都から東国に山間を往く道という意味で名づけられたとか――は幾多の変遷を経たことから経路がいくつもできました。それらのうち信州の中央部を往くように「中ほどの道」を街道に定めたことから中山道と呼ばれるようになったという説が有力です。
中仙道のコース変更の背景に権力闘争があった!?
初期中山道の作事(建設計画)を指揮したのは、大久保長安でした。長安は、武田家の滅亡にともなって徳川家の家臣にいわば鞍替えした世渡り巧みな能吏でした。初期中仙道の経路を木曾路の贄川から下諏訪にいたる最短コースとして構想計画したのは長安です。
ところが、長安死没の翌年、中仙道の経路は塩尻回りに変更されました。このとき、長安がその権限をもって利権・権益の私物化独占したという強い非難が沸き起こっていたのです。「罪科」を死去して反論できない長安に全部被せた格好ですが、幕閣での権力暗闘があったのではないでしょうか。
その権力闘争については闇に隠れてわかりませんが、中仙道の経路変更とその余波については「三州街道小野宿」の記事に記してありますので、知りたい人はアクセスしてみてください。