▲仁科郷~借馬の西には北アルプスが迫る。中央が蓮華岳、その左側が針ノ木岳、右奥には鳴沢岳。手前右端が小熊山系の尾根、その奥が白沢天狗山。右端に爺ケ岳山頂。

▲大町市平にある稲荷神社を取り囲む森: サワラや杉などからなる森に向かって往く小径が塩の道の遺構らしい

  今回は、千国街道の痕跡を探索しながら、森城址の西にある小熊山系の尾根の麓の水田地帯から仁科郷の田園地帯を通り、白樺地区、稲荷神社をめぐって借馬かるま地区の金山神社まで歩きます。
  昭和初期までは森集落の西側は、ほとんどが木崎湖南西畔の湿原だったようです。そのため、それまでの塩の道(千国街道)は、湖の西側の小熊山系南端の尾根の背または中腹を通っていたそうです。そこから湿原地帯を避けて街道が降りてくるとすれば、尾根の支脈が東に張り出してこんもりとした小山となっているところの南東斜面辺りかと見当をつけました。街道が平坦地に出てくるのは、現在の平運動場の辺りだったのではないでしょうか。
  とはいえ、古い街道の痕跡は、今ではどこにも見つけることができません。それだけ、明治以降の水田・耕作地の開拓が活発だったということでしょう。往古には、この一帯には地面の起伏があったはずですが、今はいたって平坦です。小高い場所は湿原干拓・水田開発のために土砂が削られ、低いところは土砂で埋められ均されてしまったのかもしれません。
  はたして、旧い街道の跡は見つけられるでしょうか。


▲杉とサワラの杜に囲まれた稲荷神社への参道が塩の道の遺構だという


▲森城址から水田地帯を小熊山系の尾根に向かう農道

▲南に延びる尾根と麓に広がる水田

▲塩の道は、正面の小山のような丘の脇を降りてきたものと見られる

▲野球場の西脇を南に向かう道路:この先で千国街道と出会う

▲野球場の南にはしらかば保育園がある

▲この農道は千国街道の遺構の上につくられたようだ

▲右端の尾根裾から来た小径は針葉樹の森のなかに入っていく

▲主にサワラからなる針葉樹林のなかを南下する小径

▲南から見た稲荷神社の朱い鳥居:街道は鳥居の前を右に曲がる

▲稲荷神社の拝殿:この背後に本殿がある

▲拝殿脇から境内を眺める: 境内草地にだけ陽が射し込んで明るい

▲鳥居前脇で曲がって南東に向かう小径: 往時に趣はこうだったか

樹林を出てから稲荷社の参道を振り返る: 小径が街道の遺構か?

▲農道と農業用水は北東に向かう。用水は木崎湖南端の農具川から引いてある。

▲トチノキの根元には小さな石の祠が置かれている

▲わずかに残る古民家のひとつ: この家の東側に三橋堂がある

▲江戸時代には、この門柱の先に村役人の屋敷があったか?

▲屋敷跡地と見られる場所に修復された白壁土蔵がある

広壮な古民家造りを残して修築された家屋

▲集落内の小径: ここで偶然、稲荷社の周りの樹林の所有者に出会った

  近現代の日本は、明治維新直後と太平洋戦争後と2度の危機的な飢餓状況に襲われました。そのとき人びとは生き延びるために食糧生産に向けて農耕地の開拓をがむしゃらに推し進めたようです。行政はそのときあまりに無力で、史跡など歴史や文化に無頓着で、保存施策や規制を施すことができませんでした。
  まして南北安曇野では、明治維新にさいして極端な廃仏毀釈を推進して大半の寺院を破壊したことから、多くの文化財や古文書が失われました。
  しかも、多くの労苦の成果として開拓してきた豊かな水田地帯は、減反政策やら高齢化・人口減のため、いたるところ耕作放棄地や荒れ地に蚕食されています。私たちは何を失い、何を得たのでしょうか。

◆塩の道の痕跡を探して◆


尾根の麓の農道と水田(田植え前)

  木崎湖の南には広大な扇状地が広がっています。複合扇状地ですが、農具川沿いの扇状地は、鹿島川や高瀬川がつくり出した扇状地よりも幅が広く、地形も平坦です。
  してみると、仁科三湖は太古には南北に連なる一続きの水系として河川のように流れ下り、激流をなして周囲の山並みを浸食し、大量の土砂を運搬し木崎湖以南や農具川の下流部に堆積作用をもたらして、この広大で平坦な扇状地を形成したものと見られます。
  もちろん、西から流れ込む高瀬川の勢いが最も強いので、平坦地を東にさらに押し広げたという事情もあるでしょう。

  さて、私は森城址から出発して、この木崎湖南西畔の平坦地の西端を南方に歩いて借馬かるまの金山神社をめざすことにしました。


右手は小熊山系の尾根の南端

  木崎湖南端の入り江と小熊山系の尾根とのあいだには、湖畔沿いに森城址がある丘陵が南北に延びていて、その西側には水田地帯が広がっています。この辺りは往時、湖岸の窪地で湿原でした。
  私は、小熊山系の尾根の麓に広がる水田地帯の農道を南南東に向かって歩いて、千国街道の痕跡を探しましたが、まったく見当たりません。旧い街道の遺構は、この一帯の水田開拓によってすっかり失われてしまったようです。そして、労苦を重ねて開拓した水田や畑の多くが今では耕作放棄され、草地や荒蕪地となっています。長年の減反政策に加えて、高齢化や人口減少が原因です。

  すでに述べたように、小熊山系の尾根の形状から、塩の道は尾根中腹から平野球場の辺りに降りてきたのではないかという感じがします。そこで、野球場の西脇を往く小径を南にたどることにします。球場を回り込む小径を進むと、その東脇にしらかば保育園があります。そのまま南に向かう小径が、千国街道の遺構のようです。
  水田地帯のなかを往く小径の先に針葉樹の森が見えています。この森のなかに稲荷神社があります。

◆森のなかの稲荷神社◆

  この森は、サワラと杉を植林して育てた――程よく手入れされた――人工林です。広大な水田地帯のなかに孤島のように取り残された森で、変形ハート形で、差し渡し220~250メートルほどです。周囲よりもわずかに高い丘をなしています。ほとんどが民有林です。明治維新で神社の所領が没収されたときに、土地を買い取った所有者が鎮守の杜として守ってきたのかもしれません。
  稲荷神社は、この樹林帯の北西隅に位置しているので、小径伝いに森に入るとすぐ右手(西脇)に境内や社殿群が見えてきます。


小径の右手(西側)に神社の境内が見えてくる

拝殿の奥の蓋殿のなかに本殿が安置されている

稲荷神社の神楽殿

境内摂社の小さ社殿: 祭神が何かは不明

  鳥居の扁額には「正弐位稲荷大神」と書かれています。古くからある稲荷社らしいのですが、由緒や来歴に関する史料は見つかりません。この樹林の所有者が樹林から200メートルほど東にある集落の住民だということなので、その住民たちがが氏子として稲荷社を守っているのでしょう。
  そこで、その集落を訪ねることにしました。

◆近隣集落を訪ねる◆

  稲荷社の氏子となっている集落は、国道148号の西側を往く道路――千国街道の脇往還らしい――に沿って南北に細長く家並みが続いています。その集落に向かう農道の脇にトチノキが立っています。森の端から70メートルほど北に当たる場所です。
  トチノキの幹は太く、樹齢は100年はありそうですが、枝を深く刈り込んであって、ちんまりした小さな樹容です。根元には小さな石祠が祀られていますが、これまた祭神は不明です。


水田地帯にポツンと立つトチノキ: 由緒ありげだ

祖霊を祀る石塔。かつてここに家並みがあったようだ

  明治以降昭和にかけて、木崎湖南部の地理はすっかり変わってしまったようです。水田地帯に孤立して立っているトチノキとその根方の石祠は、神社か仏堂がそこにあった痕跡かもしれません。
  さらに近辺には、かつてここに家並みがあったことを推察させるような草地があって、墓石とか祖霊を祀るような石塔も立っています。
  しかしながら、往古の地理や集落の様子を探る「よすが」は何もありません。
  平木崎集落の往還の西脇に、由緒ありげな一対の門柱と塀が残されています。江戸時代の村役人(庄屋・名主や組頭など)の屋敷跡ではないでしょうか。以前、ここには大きな茅葺きの古民家と納屋がありました。もとは同じ一続きの敷地だったと思われる位置にある土蔵の軒下には、粉挽水車の部材だったと思しき木材が置かれています。
  想像をたくましくすると、かつて広壮な茅葺主屋に暮らしていた一族が管理していた水車の廃材を、その子孫がこの土蔵脇に残していたのではないかとも思えてきます。
  ところが今、屋敷跡敷地は道路によってきわめて不自然な形で南北に分断されています。  
  というように、この一帯では往古の集落や家屋の痕跡が開拓・開発で一掃されてしまったらしいです。

なまこ腰壁の前に置かれた歯車や杵:  ケヤキ材の臼らしい円柱体もあるので、粉挽水車の部材だろう

草におおわれたこの更地には茅葺古民家があった

今は古い茅葺家屋(納屋)だけがここに孤立している

  金山神社は、鍬や鎌などの農具、手斧や鋸をつくる鍛冶職人たちが篤く信奉した社だそうです。


▲塩の道の痕跡は県道325号に出会ったところで消えてしまう

▲金山神社の鎮守の杜

▲金山神社への参道の入り口

▲かつてあった桜並木の名残をとどめる古木

▲桜の古木の傍らから西方の眺め: 北アルプスの前哨山塊が見える

▲樹齢300年近い杉大木の並木が深い木陰をつくる

▲金山神社の大鳥居: 背後に見えるのは拝殿

▲静謐な境内のなかに佇む拝殿

▲境内社の祠群の背後に本殿が見える

▲拝殿の背後に控える本殿の造りが美しい

▲拝殿の西脇に控える社務所: 美しい結構だ

 北安曇地方は、古墳時代から、そして日本海側からも太平洋側からも安曇族などの諸族の南北往来があったところです。渡来人や初期密教修験者が鉱山の探索や採掘、精錬、さらに製銅や製鉄、冶金などの技術を携えて農耕地や集落の開拓に参加し支援したとも言われています。彼らが尊崇し祀った神が金山彦です。

◆金山神社を訪ねる◆

  稲荷社の参道を南東に進むと国道325号に出会います。そこで街道の痕跡はふたたび消えてなくなりました。
  県道を東に120メートルほどたどると、平木崎の集落からの小径との交差にぶつかったので、借馬かるまをめざしてその小径を南に歩くことにしました。借馬の集落を往くこの小径が千国街道の遺構跡に造成された道路だそうです。


国道から北を眺めると居谷里の山並み

この小径が千国街道の遺構跡(南からの眺め)

  この道沿いに歩いて借馬の集落を取材しているとき、海岳院の近くで朝の清掃・草取り(地区の行事)から帰宅してくるお年寄りたちに出会いました。お話をうかがうと、やはりこの小径が塩の道だということです。ただし、昭和前期までは起伏に富んだ小径だったとか。
  この道の西に東西220メートル、南北150メートルにもおよぶ広大な樹林が見えます。金山神社の鎮守の杜で、杉とサワラなどの巨木が樹冠を並べています。取材した老婆によると、神社は標高が少し高い丘になっているそうです。


参道の中ほどで振り返る

木立の下は鬱蒼とした日影になっている

  はるか昔から昭和前期までは、この辺りの水田は低地湿田で小さな田圃に分割されていて、ときおり鹿島川や高瀬川など河川の氾濫に悩まされたのだとか。そんな場合には、借馬地区の北側にある木崎などの村の人びとがこの集落や神社に避難してきたそうです。借馬はこの一帯の農村開拓の起点とだったそうです。
  ところが、30~40年ほど前に耕地整理と客土がおこなわれて、田圃は広くて矩形になるとともに、水田地帯は平坦になったようです。

  さて、千国街道の西脇に金山神社への参道入り口があって、石塔が置かれています。そこから、神社にお詣りすることにしました。


大きな構えの神楽殿

  借馬の金山神社または金山彦の社は、古代に塩の道の原型が開削された頃(1000年以上前)から祀られていたようです。所在地は集落の移動とともに変わったようです。大町市街北部から木崎湖畔までの農地や集落の開拓にさいしては、扇状地の高台で古くから集落があったこの地が起点となったようです。
  というのは、すでに述べたように、鹿島川の氾濫にさいしては、高台にあるこの集落が、木崎湖畔のいくつもの開拓村からの避難場所となったからだそうです。
  金山神社は、そういう借馬村の鎮守で、大町北部の村々の総鎮守としての地位を保っていたそうです。そして、安曇野一帯の鍛冶屋や石工たちの守護神となっていて、祭礼には、大町市街も含めて近在や遠方――松本や穂高・南安曇、小谷――から鍛冶屋や石工が集まって盛大に祭事を盛り上げたのだとか。
  明治時代には、金山神社の鳥居や社殿の修復や再建にさいしては、一般の村人の上に立って松本・穂高さらに小谷以遠からやって来た鍛冶職人、大工たちが総出で建築に携わったと言われています。
  江戸時代までは、神社は大地主として広大な領地や農村を保有していたので、社殿などの建て替えや修築にさいしては自前の財力でまかなうことができたのです。ところが、明治維新で神社や寺院は所領や財産を没収されてしまい、その後は氏子や信徒の寄進や報謝に依存するしかなくなったのです。


▲右端の樹林が金山神社の鎮守杜。背後に蓮華岳や鳴沢岳などが見える

▲金谷神社脇から流れ下る用水沿いのヒバ並木

  人びとは水の猛威を怖れて平坦部には定住せずに、その周囲の山間部や山裾に集落や耕作地を開いていたようです。
  鎌倉後期頃から気候変動が始まって、降水量も減り河川の氾濫の数と規模が小さくなったため、人びとは警戒しながら平坦部での水田開拓を始めたようです。

  金山神社は、製鉄や冶金、鉱山の神である金山彦の命を祀る神社で、伝説では7世紀半ば頃の創建だそうです。借馬の古老によると、創建時には大町市街北東の三日町辺りにあったのですが、やがて北に動き、往古の農具川の西岸の山裾――現在の借馬から1キロメートルほど東――に移り、さらに室町末から江戸初期までのあいだに現在地に移設されたという言い伝えがあるそうです。
  弥生時代には「かるま」と呼ばれる集落は、金山神社の二番目の所在地があった辺りにあったそうです。
  14世紀頃まではm高瀬川や鹿島川、農具川(仁科三湖から流れ下る河川)の水量は膨大で氾濫や土石流を繰り返していたようです。


南の水田地帯からの金山神社の杜の眺め

  してみると、平安時代ないし鎌倉前期までの塩の道は、木崎湖からは仁科盆地から大町盆地の東端の山並みの尾根や裾を通っていたのではないかと推察されます。

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