佐久穂町では佐久甲州道の遺構は脇街道を含めて3本あるようです。①国道299~141号になった道、②国道の西側の段丘上の道、③千曲川右岸の道です。 国道沿にはさほど懐かしい景観が残っていないので、今回はこのうち②をたどって、昭和期の面影を残す家並みが残る上畑宿跡から中畑までの旧街道を探索してみます。


◆洪水で壊滅し山裾に移して再建された集落◆


上畑地区の水田地帯でははるか北に浅間山が見える



▲国道299号となった旧街道。江戸時代の痕跡は見当たらない。


▲ここで国道から上の段丘に向かう分岐点


▲養蚕向けの主屋と漆喰土蔵は昭和期の懐かしい農村風景


▲粗壁土蔵も旧街道沿いに並ぶ


▲昭和30年代の土蔵と養蚕向けの主屋は無住


▲段差を支える石垣の上に板塀という屋敷は荒廃が進んでいる


▲江戸時代からの町割り(敷地区画)は残されているようだ


▲西側の段丘上から上畑の集落を眺める

 大洪水があった1742年(寛保2年)には、上畑を含む所領を支配していた旗本水野家では当主の忠穀(ただよし)が死去して混乱状態で、上畑村にとっては不運なことに、洪水被害に対してまともな対策が打ち出せなかったようだ。
 村が領主におさめる年貢は、藩や幕府に記録された場所ごとに村高(生産性)が査定され記録されている。以前の場所で村を再建する場合に、普通は年貢の減免がおこなわれる。しかし、水野家では当主の死亡と継嗣手続きで混乱していたため、旧地での復興では年貢の減免ができなかったようだ。
 こういう場合、別の場所に新規開拓・開村すれば、生産が復興するまでは年貢の猶予を与えられるので、現在地への移転をはかったものと見られる。


▲旧街道から山際の段丘上の自福寺を眺める


▲段丘を降りていく旧道: 高低差と曲りが歴史を感じさせる


▲高石垣で支えるほどに段丘崖の高低差がある街


▲中畑の虚空蔵堂。お堂が属していた寺院は今はない。

 戌の満水の後、上畑村と街道は山裾に移転して再建されたが、段丘があったり傾斜がきつい尾根が張り出していたりしている場所もあった。
 そういう場所では、道や屋敷地の両側で大きな高低差がもたらされた。そこで、石垣で高低差や段差を支えなければならないところがあちこちにできることになった。
 ただし、現在ある高石垣のほとんどは昭和期に道路補強・拡幅工事のさいにつくられたもののようだ。江戸時代には高石垣は特別の技術が必要で費用も大きかったので、自然石の野面積みできる程度の高さがまでだったようだ。

◆18世紀半ばに再建された街道◆

  江戸時代中期の1742年(寛保2年)、「戌の満水」と呼ばれる千曲川水系の大氾濫が発生しました。信州全域で豪雨が続いて大きな被害を被りましたが、現在の佐久穂町にあたる区域では、桁違いに膨大な流水量によって千曲川が主流路を――宮前辺りで150メートル以上――西側に変えて上畑村から高野町側に襲いかかり、佐久甲州道の高野宿と近隣の集落・田畑を破壊したそうです。
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  氾濫は街道と集落を流失させただけでなく、千曲川左岸の西に迫る山並みの縁を切り崩して大量の土砂を移し換えて、河畔一帯の地形をすっかりつくり変えてしまったそうです。
  上畑から下畑では、旧街道本道は現在の国道299号より東側の――千曲川に近い――河岸段丘面にありましたが、洪水でそれまでの集落が壊滅したために、街道は山裾近くの自福寺脇の経路に変更され、家並みもその道沿いに再建されたのだとか。今回歩くのはこの小径です。

  ところで、千曲川左岸は地質が比較的に安定した右岸に比べて軟弱な火山灰土壌が堆積した脆い地質だったことから、戦国時代から江戸初期までは、軍道としての甲州道佐久往還は右岸の段丘崖上――5メートルほど高い標高にある――を往く道が主流だったようです。往時は、小海線八千穂駅がある段丘面の下は千曲川の河床だったので、集落はなかったようです。
  しかし、1640年頃から幕府の直轄領(天領)を通るようにて甲州道の佐久往還を建設していきました。
  治水技術がまだ非常に未熟だった時代に、千曲川左岸に街道がつくられたわけです。地質の安定性や河川との標高差よりも、幕府の統治の都合上の理由を優先したのです。案の定、1742年「戌の満水」が発生して、千曲川左岸の街道と宿場は全面的に壊滅してしまいました。


昭和初期の造りで、南側に縁側がある


旧街道の来し方を振り返ってみる

  洪水の後、17世紀半ば頃から、山際にある上の段丘面に佐久甲州道と集落群は移転再建されることになりました。以前の集落にあった寺院や神社もまた西側の段丘上や山裾に移されたそうです。
  その経緯について、道沿いの山裾斜面にある自福寺の境内に立つ説明板には、こう記されています。

  「自福寺は元禄14年(1701年)に創建された真言宗の寺である。・・・寛保2年(1742年)の大洪水(戌の満水)によって流失したため、安永4年(1775年)にこの地に再建された。
  寛保2年の大水害では、現在よりもはるか東を流れていた千曲川が増水し、方向を変えて村に押し寄せた。また、村の西に位置していた大石川や飯塚川、沢入川も氾濫したため、上畑村には四方から泥水が流れ込んだ。・・・
  上畑村では、領主の水野氏に窮状を訴えたが、ようやく与えられた食料や種物は利子付きで、年貢も免除されなかった。上畑村の人びとは廃墟なった村をあきらめ、西の山際に新しい村を再建した。」

  なお、ヨーロッパ史学では、地中花粉化石の解析によって、14世紀から始まった寒冷期が終わり18世紀半ばは温暖期への移行しつつある時期で、気象が不安定だったことが実証されています。
  信州では1730年代以降になると、気候変動にともなって千曲川水家の増水氾濫・水害が2~3年に一度、さらには1年間に2回以上という頻度で発生するようになった経過が史料には記録されるようになりました。もちろんそれに加えて、水害の危険性が高い河畔に水田と村落の開拓が広がったという、人間社会の側の事情もあるからですが。


道の両側ともに昭和期の養蚕向け総二階の主屋


尾根を切通して開削された道沿いの高石垣

  ところで、18世紀はじめに自福寺は新たに上畑に開創されたのか、それとも移って来たのか、前身の寺があって何という寺号だったかなどについては不明です。私の当て推量では、17世紀半ば過ぎから上畑村は発達して街道宿駅になり、18世紀はじめには増えた住民のために寺院が新たに創建されたか、あるいは別の場所から移ってきたのではないかと見られます。
  集落の西方の山中には真言密教の寺院がいくつかあったと見られるので、その塔頭支院がこの地に移転して自立したとも考えられます。


段丘崖は3メートル近くの高低差がある

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