新海三社神社は、神仏分離の前には神仏習合の仕組みのもとで、別当としての神宮寺と一体になっていたそうです。ところが、三重塔は神社の宝庫として神社の境内にとどめられ、仁王門や鐘楼、阿弥陀堂は神社から南西に400メートル離れた川岸(この場所)に移設されました。
▲仁王門
梵鐘は1338年(南北朝初期)につくられ、鎌倉時代の質実剛健の威風をとどめているといいます。仁王門には金剛力士像2体が置かれています。
佐久郡や上田小県郡は、古代から中央王権や有力貴族・有力寺院の支配下に置かれていて、その後、戦国時代には武田氏をはじめとする有力武将たちの勢力争いの舞台になりました。
◆豊かな農村集落◆
▲家門入りの立派な蔵
中世以来の城下街でもあった集落は、その後農民集落となったようですが、豪農が多かったようです。今でも、家門を入れた立派な蔵や門、伝統的な意匠の和風家屋が神社の参道沿いに並んでいます。
蔵や家屋はきれいなので、昭和期以降に改築ないし修築されているようですが、城下の「御成り道」あるいは古き伝統をもつ街道の趣に合わせた景観となっています。
▲街道沿いの商家風の家屋
◆禅寺 蕃松院◆
この地区の北側の山に一番近い道が、古くからの街道で、田口城や龍岡城への御成り道だったようです。
この道を西向き(臼田方面)に歩いていくと、山裾にある立派な禅寺に出会います。曹洞宗の大梁山蕃松院です。石垣の高台への入口を守る二層建ての禅宗風の楼門が威風を払っています。
古くは。すぐ近くに明法寺という寺院があったのですが、焼失したようです。曹洞宗の禅寺、蕃松院としての開山は150年頃で、田口城主の依田氏の菩提寺として発展しました。
その後も、この地方の領主の菩提寺として保護されてきたそうです。
▲春の日を浴びた参道
◆桝形と惣構え◆
街道をさらに北に歩くと、筋違いのような辻脇に大きな鳥居と桝形が見えてきます。鳥居の編額は古びていて、下からは読み取ることができません。
桝形とは、敵軍の侵入を妨げる軍事施設です。龍岡城の城郭陣地としての惣構え、つまり防御設計の範囲はここまでおよんでいたようです。そうすると、ここまで歩いてきた道が城の外郭を画しているということになるのでしょうか。
だとすると、蕃松院は城の鬼門の方角を守る寺院ということになるのかもしれません。今となっては勝手に想像するしかできませんが。
そんなことを考えながら龍岡城跡に戻ることにしました。すると、目の前のケヤキの古木が、なにやら歴史を眺めてきた証人のようにも思えてきます。
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