文とは、言葉の集合で、最低限の意味のまとまりやつながりを表します。文は、地球上のどこでも、次の3タイプしかありません。
@何が 何だ。 例 あの動物は 犬だ。
A何が どうする。 猫が 走る。
B何が どんなだ。 夕日が 美しい。
@は、あるものごとの名前や集合の範囲を示す文です。Aは、あるものごとの動きを示すものです。Bは、ものごとの様子や状態を示すものです。
ここで、「何が」に当たる言葉は「主語」と呼ばれます。文の「頭」とも言われます。次に、「何だ」「どうする」「どんなだ」は述語と呼ばれ、文の「体」(本体)と言われます。そして、「何が」「何だ」「どうする」「どんなだ」は、文節と言います。1つ以上の単語からなる、言葉の節目です。
「何が」という文節の本体は「何」であって、それに当たる言葉は名詞、すなわちものごとの名前を指示する言葉です。「何が何だ」型の文では、主語を説明する述語も名詞です。したがって、@の文は、述語の本体は名詞で、ものごとの名前(意味範囲を画定する言葉)を表現する文です。Aの述語の本体は、動詞で、ものごとの動作=動きを示す文です。Bの述語の本体は様子や状態を示す言葉、つまりは形容詞や形容動詞となります。
世界中の言語では、基本的に、この3つのタイプしか存在しません。この3つの型は、述語の違いによって区分されるのです。
こうして、文を書くためには、書き手は、
@ものごとの名前(名称=意味範囲)を表現しようとしているのか、それとも
Aものごとの動作=動きを表現しようとするのか、それとも
Bものごとの様子や状態を表現しようとしているのか、
を判断=自覚しなければなりません。
この3つの文のタイプは、@をプロトタイプとして、ABはそのヴァリアント、多様化の変種と見ることができます。
これらは、哲学=認識論では、「定言判断 das Kategorische Urteil 」「定言命題 der Kategorische Satz 」と呼ばれます。「カテゴリー」――意味の範囲――を形成・規定する文ということになります。
@とBは、(日本語では)述語の本体が「名詞」か「形容詞」「形容動詞」かの違いしかありません。ところが、英語などのゲルマン系の言語――ほかのヨーロッパの言語でも――では、ともに、述語動詞が「be動詞系の動詞・助動詞」となる文型です。そこでは、動作も現在進行形という形があって、それは@の文型でAの動作を状態として表現する文型です。
要するに、基本は1つだということです。
ここで重要なのは、書き手が相手に伝えようとする内容が、事物の名称なのか、動きなのか、状態なのかを自覚するということです。自分は何を話そうとするのか、を意識せよ。この意識の覚醒を繰り返していくと、いつしか条件反射になり、あえて意識しなくなります。というよりも、言説の目標意識がもっと高い次元に向けられるからです。
●とにかく3つの型の文をつくれ●
以上の意味で、文をつくるということは、事象を定言判断(規定・定義)することで世界(自分の外界と内面)を認識するということです。ゆえに、文章技術を身につけようとするなら、その最初の訓練は、とにかく自分の周りにあるもの、見えるもの、感じるものを、以上の3つの文型で表現しまくることです。
いろいろな飾り=修飾語や付帯状況を入れずに、とにかく「AはB(名称・状態)だ」「CはDする」と。これは、結構難しいものです。
文章は文の集合です。集合ですから、いろいろな大きさというか単位に区分し、まとめあげることができます。
「段落 paragraph 」という単位、それが集まってつくる「節 section 」「章 chapter 」というような単位、さらに大きな単位としては「作品全体 work 」があります。
それらの単位には、意味的なまとまりがあり、それを文脈とか連関性( context / Zusammenhang )と呼びます。
したがって、小さな単位=範囲の文脈と中規模の文脈、さらに大文脈ないし全体文脈があるわけです。
もちろん、たった1組の主語・述語の組み立てからなる1つの文にも、文脈はあります。しかし、ここでは、2つ以上の文の関係や結合の仕組みを考えてみます。文の「つながり具合」を考えます。