福島宿の北端近く、旧本陣竹内家の土蔵と長屋門の東隣に浄土宗の寺院、西福寺があります。古い道筋では、北向きに600メートルほど続いた町通りが鉤の手に西に曲がって、竹内家の脇でさらにまた北に鉤の手に曲がる、その東西の往還の北脇に参道入り口があります。
  本陣の近くの鉤の手の近くに寺院を置く。これは、街道と宿場が戦国期以来の軍事制度(砦)に準じた集落の構造だといえます。


◆格式が高い趣きの寺院◆



千曲川堤防から眺める横町の家並みと西福寺本堂: その背景には奈良山、右には万座高原、左は志賀高原

旧街道では、鉤の手の曲がり角で左に向かう道はなかった。右に曲がると、西福寺の参道。


▲旧本陣竹内家の土蔵の奥の碑が東側が西福寺の境内


▲山門の西に漆喰無理の土塀が境内南側を取り囲む


▲山門の下からの本堂と境内の眺め


▲四脚薬医門は重厚な構え


▲土塀と薬師堂とのあいだに立つ2基の庚申塔

寛永20年に造られたと庚申塔。「かのえさる」の年、あるいは庚申の日の夜に祈りと宴を催して、健康長寿、疫病退散を願ったという。


▲天文年間の造立と伝えられる薬師堂は修復された

1534年、当時の地頭領主、井上河内守政清が疫病平癒を祈願して文殊菩薩大姉像を寄進し、その後疫病が収まってから疫病から民衆を守る医王薬師如来を祀る小堂を建てたという。


▲本堂前から境内と山門を振り返る

◆水害頻発で失われた史料◆

  千曲川西岸の福島は幕末まで、上流部にダムがない時代に膨大な水量を運ぶ犀川と千曲川合流点の直下にあったので、増水・氾濫による被害を幾たびも被っているため、西福寺の文書も何度も流失しました。そのため、寺の来歴を知る史料がさほどないようです。

  寺伝ではこの寺は、鎌倉時代はじめの1192年(建久3年)、金光上人が回国行脚のさいに開基したとされています。金光は鎌倉で法然に出会って知遇を得、浄土宗に帰依したといわれています。
  日本にとって先進文化家圏あった中国では、禅宗のなかから阿弥陀信仰としての浄土教が生まれ、日宋貿易を経てやがて日本でも阿弥陀信仰としての浄土教が研究され、法然によって浄土宗として体系化されたようです。


重厚な薬医門が山門となっている

どっしりとした本堂

  西福寺を開基した高僧、金光については伝説めいた情報しかありません。私の勝手な想像では、鎌倉で禅僧として修行していた金光が、法然の思想(教え)に邂逅して浄土信仰を会得したのではないでしょうか。
  福島は16世紀はじめまで千曲川河畔の湿地帯でしたから、西福寺またはその前身の寺院は、別の場所で開基されたものと思われます。


1643年建立の庚申塔

  北隣の長沼宿にも13世紀に創建された浄土宗の寺院、善導寺があります。その寺は西福寺よりも半世紀近くも遅い開基です。鎌倉光明寺の高僧、良忠が長野の善光寺詣でのさいに修行と布教のために、長沼で堂宇を創建したのが始まりだとか。善光寺の塔頭支院の半分は浄土宗ということもあって、北信濃には浄土宗の信徒が多く、福島宿の建設のさいにも街づくりに呼び集めた住民のなかにも多くの信徒がいたでしょう。
  川の対岸の長沼では遠すぎるため、この街にも浄土宗の格式の高い有力な寺院を誘致したのではないか、と思うのです。
  北国街道松代道とその宿駅としての福島集落が建設されたさいに、町のなかでも本陣脇という重要な敷地に境内を与えられて移設創建されたのではないでしょうか。
  長沼宿から千曲川を渡河して到達する福島宿では、2つの鉤の手の間に位置する西福寺の所在地は、本陣に隣接するという点からしても、宿場街の運営に置いてきわめて大きな役割をもっていたはずです。

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