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長野県長野市大町~
穂保~津野~赤沼
鎌倉中期の創建


▲善導寺の広大な境内で鐘楼門、本堂、小堂(名称不明)を眺める: 水害後、境内は更地状態になってしまった

  寺伝では13世紀半ばの草創だといわれています。鎌倉の高僧禅師が堂宇を建立して住民の自発的な信仰団体を組織したということです。律令制と荘園公領制はすでに崩壊して久しく、仏教は、かつての王権国家護持のための思想から武士や民衆の活動の精神的支柱となる思想へと転換する趨勢にありました。その意味では、長沼での浄土信仰の拠点となる寺院の勃興は、日本列島全体に先駆けてまさに時代の画期となるできごとでした。
  比叡山や高野山と鎌倉を結ぶ経路の中央にあったという北信濃長沼の地理上の位置が、この地に歴史的な役割を担わせたのかもしれません。

■浄土教の祖に由来する寺号■


▲鐘楼門を見上げる

  旧街道栗田町通りを北に450メートルほど進むと、道の西脇に大きな寺院境内への入り口を示す門柱があります。門柱には「浄土宗 善導寺」という表札が埋め込まれています。善道寺は浄土宗知恩院の系統(末寺)です。
  悟導院終南山善導寺というのが正式の名称だとか。寺号の由来となったのは、古代中国唐の時代、7世紀半ばに活躍した高僧、善導大師です。善導は古代中国で阿弥陀経を中心とする浄土教を確立し、それは日本に伝えられて浄土信仰の基礎となったそうです。
  遣唐使廃止以来、日本では古代中国の仏教思想・文化の研究は低調になっていましたが、平安末期の混乱のなかで武士階級が台頭し、民衆運動が活発化するとともに古代中国の禅宗や浄土教への関心と研鑽が深まったようです。背景には、11世紀末から宋を中心とする東アジア貿易(日宋貿易)が発達した状況がありました。
  善導が師事した道綽は、禅宗の修行のなかから浄土教思想を編み出した高僧でした。善導は、阿弥陀経の研鑽によって民衆への浄土思想の普及を試みたそうです。善導が終生の拠点としたのが終南山悟真寺だということで、善導寺の山号の由来となっています。
  古代中国の浄土教は平安晩期に日本に伝えられ、比叡山延暦寺や鎌倉の気鋭の学僧たちが浄土思想(阿弥陀経)を研鑽し、民衆への浄土信仰の民衆への布教を試みたと見られます。


▲洪水後に山水風の庭園の面影を残す石

  言い伝えでは、鎌倉光明寺の高僧、良忠が善光寺詣でのさいにあちこち立ち寄ったときに善導大師の肖像画を描いて贈っていましたが、1261年、長沼で堂宇を創建したそうです。そこにも善導の画を掲げ、善導を本尊として悟導院終南山浄林寺という寺を興しました。
  良忠はほどなく寺の住持を任命しないで鎌倉に帰っていき、その後、信徒たち自身が浄林寺を共同で運営したのだそうです。その後、15世紀末に光明寺の祖観という僧がこの寺に赴任して住職となったそうです。開山はこのときとされています。
  1672年(寛文年間)、知恩院の応誉大僧正によって、浄林寺は善導寺と寺号を改めることになりました。
  長沼で「善導寺の鐘」と呼ばれて親しまれてきた鐘楼門は1712年(宝永年間)の建立で、1873年(明治6年)の火災でこの鐘楼門だけが残されました。


▲この小堂は阿弥陀堂だろうか

▲本堂南脇からの眺め


旧街道から善導寺の境内を眺める

参道は鉤型に曲がって鐘楼門と本堂に向かう

18世紀前葉に立てられた鐘楼門は今も残っている

鐘楼門が山門となっているようだ

剛健な造りの本堂(大殿)

庫裏・寺務所または宿泊棟だと思われる建物

境内全体を見渡す

境内の裏手(西側)から善導寺の堂宇群を眺める

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