■横町の範囲はわからない■
江戸時代の福島宿横町の範囲はよくわかりません。明治以降、新たな道路が旧街道遺構に接続されたり、街並みの区画整理がおこなわれたからです。ここでは仮に、天神社の少し北側で左折して西に向かう道沿いよりも北側の区域と見ることにします。
⇒江戸時代の福島宿の街道と町割り
素晴らしい結構の長屋門
隣接するのは西福寺の門柱と奥の山門
そこで、旧街道から西側は、旧本陣竹内家の遺構と道を挟んで向かい合う1列の家並み――天神社境内の北側の家並み――を含み、東側は往時の鉤の手から東に新たに延ばされた道よりも北側の区域と見ることにします。
横町通りは両端が鉤の手で、それらが合わさって桝形を構成していたものと見られます。
福島宿では、宿場町の南北両端に本陣が置かれていて、人びとの交通と物流の中心となていたので、この横町通りも繁華をきわめていたと思われます。しかし、今は天神社の北側の家並みは無住となっている家屋もいくつもあって、物寂しい風情が漂います。
とはいえ、かつての鉤の手の北側の家並みには今も昭和前期までの土蔵や長屋門などの古民家が残っていて、往時を想像する景観となっています。ことに旧本陣竹内家の長屋型の土蔵は道に面して30メートルほど続く長さで、そこには重厚な長屋門が組み込まれていて、武家屋敷の構えのように見えます。長屋型の土蔵の東端奥にも、重厚な土蔵があって、旧本陣の屋敷地を縁取っています。
その東隣には、駐車場の裏まで西福寺の参道が山門(薬医門)まで続き、往時の横町の格式を今にとどめています。
■昔日の面影を横町の裏小路に探す■
西福寺から東に35メートルほどのところに、北に入っていく小路があります。この小路は江戸時代からあった道で、横町から南向きに中町の裏手まで行き、そこから曲がって町の東側の水田地帯に向かっていたものと見られます。
それでは、この小路を入って昔日の面影の名残りを探すことにしましょう。
大きな総二階の家屋:養蚕が盛んな頃の面影
養蚕の作業屋兼倉庫の建物らしい
北国街道松代道沿いには、1970年代頃まで、幕末から続いていた旧街道の面影を残す町並みがところどころにありました。今では、見つけるのが相当にむずかしくなっています。
ところが、明治以降には純然たる農村となっていった福島には、今でもところどころに江戸時代の伝統につながる昭和レトロな家並みや古民家がいくつも残されています。ことに横町の旧街道通りから少し入った小路沿いには、そういう懐かしい家なき景観を見つけることができます。、
総二階造りの主屋は、かつてそこが内部の障子や襖を取り払って養蚕場所になっていたことを語っています。そして、小径に面した薄い壁の建物は、季節によって養蚕場所になったり、蚕籠や網など養蚕用具を補完する倉庫となったりした歴史を物語っています。
長屋門の奥に庭園と主屋が見える
小路沿いに端正な庭園を挟んで土蔵が点々と並ぶ
一方、敷地の隅にあたる小路側や奥には、土台を石垣で30~50センチメートルほど嵩上げして重厚な壁の土蔵が建てられています。土台の嵩上げは、福島集落が千曲川沿いの水害多発地帯であるため、洪水や堤防越水に備えた造りです。
また、土蔵が堅固な造りで壁が厚く、密閉性が高いのは、もちろん、洪水対策もありますが、リンゴなどの果物を収穫してから蔵のなかに数か月保存し、値上がりを待って出荷するための保冷し続けるためです。
ところで、福島では広大な屋敷地の道沿い側に、大きな土蔵などが並んでいるので、長屋のように続く蔵の列の一角に長屋門を設えて、屋敷の正門とするところが多かったようです。
福島の北隣の長沼にも、同じような屋敷の造りが数多くあったのですが、先頃の大洪水でその多くが破壊されてしまいました。また、損傷して公費解体撤去された土蔵もいくつもあります。その意味では、福島の養蚕用の倉庫兼作業屋や分厚い壁の土蔵は貴重な文化遺産です。
このような屋敷や家屋の造りは、松代以北の千曲川流域に共通するものですが、そういう建築様式が今でも残っているの集落は限られています。
30年ほど以前には、北国街道松代道沿いには、そういう集落風景や古民家がたくさん並んでいたものですが。失われていく信州の原風景ですね。
横町集落の東端は田園の中
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