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長野県須坂市福島
  福島宿横町は、南北に往く北国街道松代道が西に折れた突き当りに位置する街区です。宿場町の北端をなしている町筋です。
  そこには本陣や寺院があることから、宿駅の建設当初からある街区です。横町には、往時の家並みを偲ぶことができる昭和期の古民家(納屋や長屋門など)がいくつも残っています。歴史的景観の保存割合が高い街区だと言えます・
  【写真】横町の長屋門や粗壁蔵が残る一角。
福島宿の北端の街区

  「横町」とは、表通りを横に入った町筋や街区、あるいは表通りを横切る通りの町筋を意味するそうです。福島宿横町は、松代方面から北に向かってきた街道(県道347号)が西に折れるところの北側につくられた街区です。上町から中町へと南北に連なる宿場の――約600メートルも続く――主な町通りに対して、横向きの通りに沿って形成された100メートルにも満たない街並みということになります。⇒江戸時代の福島宿の街道と町割り
  1610年頃に北国街道松代道と福島宿は発足しました。その当初の街道と街並みは、1945年に千曲川の氾濫で流失してしまったので、ほぼ現在の町筋に移転して宿場街を再建したのですが、横町はそのときからある街筋です。
  横町には本陣竹内家や西福寺があるので、街道に面したところは宿場の枢要部をなしていたということになるでしょう。


▲街道横町通りは西に折れてから80メートルほど進んで、北に曲がる鉤の手道となっている

▲街道横町通りは堤防の下を右折して北に向かう。往時の鉤の手は今、T字路となっている。

■往時の面影を探す■

▲鉤の手を曲がると、街道沿いに旧本陣竹内家の長屋型土蔵が続く


▲長屋門を挟んで東西の土蔵が転結している


▲長屋型土蔵の奥に連なる土蔵の結構も武家屋敷のようでみごとだ


▲天神社北側に隣接する古民家は、左折する街道の角地。
 往時は、鉤の手桝形で頑丈な土蔵または石垣で防備されていたはず。


▲鉤の手から堤防下までの街道沿いの家並み。右手の妻面は竹内家の蔵。


▲ここは幕末まで鉤の手桝形で、奥(東)に延びる道は明治以降に造られた。
 江戸時代には頑丈な土蔵と石垣で東には進めない造りになっていたはず。


▲小路沿いに昭和前期の造りと見られる粗壁の納屋や土蔵が並ぶ


▲この建物は蔵と養蚕作業屋を兼ねた家屋と思われる


▲小路の突き当りで石垣で少し嵩上げした土台の土蔵と出会った


▲土台を嵩上げした長屋型土蔵が長屋門を挟んで連結している


▲粗壁の下側は腰板で保護されている


▲漆喰白壁の土蔵の下側がコンクリートで保護された蔵


▲土塀の奥に土蔵があって、小路の奥行き感が出ている


▲奥の主屋は茅葺造りの屋根を金属板で覆ってある

■横町の範囲はわからない■

  江戸時代の福島宿横町の範囲はよくわかりません。明治以降、新たな道路が旧街道遺構に接続されたり、街並みの区画整理がおこなわれたからです。ここでは仮に、天神社の少し北側で左折して西に向かう道沿いよりも北側の区域と見ることにします。
⇒江戸時代の福島宿の街道と町割り


素晴らしい結構の長屋門



隣接するのは西福寺の門柱と奥の山門

  そこで、旧街道から西側は、旧本陣竹内家の遺構と道を挟んで向かい合う1列の家並み――天神社境内の北側の家並み――を含み、東側は往時の鉤の手から東に新たに延ばされた道よりも北側の区域と見ることにします。
  横町通りは両端が鉤の手で、それらが合わさって桝形を構成していたものと見られます。
  福島宿では、宿場町の南北両端に本陣が置かれていて、人びとの交通と物流の中心となていたので、この横町通りも繁華をきわめていたと思われます。しかし、今は天神社の北側の家並みは無住となっている家屋もいくつもあって、物寂しい風情が漂います。
  とはいえ、かつての鉤の手の北側の家並みには今も昭和前期までの土蔵や長屋門などの古民家が残っていて、往時を想像する景観となっています。ことに旧本陣竹内家の長屋型の土蔵は道に面して30メートルほど続く長さで、そこには重厚な長屋門が組み込まれていて、武家屋敷の構えのように見えます。長屋型の土蔵の東端奥にも、重厚な土蔵があって、旧本陣の屋敷地を縁取っています。
  その東隣には、駐車場の裏まで西福寺の参道が山門(薬医門)まで続き、往時の横町の格式を今にとどめています。

■昔日の面影を横町の裏小路に探す■

  西福寺から東に35メートルほどのところに、北に入っていく小路があります。この小路は江戸時代からあった道で、横町から南向きに中町の裏手まで行き、そこから曲がって町の東側の水田地帯に向かっていたものと見られます。
  それでは、この小路を入って昔日の面影の名残りを探すことにしましょう。


大きな総二階の家屋:養蚕が盛んな頃の面影

養蚕の作業屋兼倉庫の建物らしい

  北国街道松代道沿いには、1970年代頃まで、幕末から続いていた旧街道の面影を残す町並みがところどころにありました。今では、見つけるのが相当にむずかしくなっています。
  ところが、明治以降には純然たる農村となっていった福島には、今でもところどころに江戸時代の伝統につながる昭和レトロな家並みや古民家がいくつも残されています。ことに横町の旧街道通りから少し入った小路沿いには、そういう懐かしい家なき景観を見つけることができます。、
  総二階造りの主屋は、かつてそこが内部の障子や襖を取り払って養蚕場所になっていたことを語っています。そして、小径に面した薄い壁の建物は、季節によって養蚕場所になったり、蚕籠や網など養蚕用具を補完する倉庫となったりした歴史を物語っています。


長屋門の奥に庭園と主屋が見える



小路沿いに端正な庭園を挟んで土蔵が点々と並ぶ

  一方、敷地の隅にあたる小路側や奥には、土台を石垣で30~50センチメートルほど嵩上げして重厚な壁の土蔵が建てられています。土台の嵩上げは、福島集落が千曲川沿いの水害多発地帯であるため、洪水や堤防越水に備えた造りです。
  また、土蔵が堅固な造りで壁が厚く、密閉性が高いのは、もちろん、洪水対策もありますが、リンゴなどの果物を収穫してから蔵のなかに数か月保存し、値上がりを待って出荷するための保冷し続けるためです。
  ところで、福島では広大な屋敷地の道沿い側に、大きな土蔵などが並んでいるので、長屋のように続く蔵の列の一角に長屋門を設えて、屋敷の正門とするところが多かったようです。

  福島の北隣の長沼にも、同じような屋敷の造りが数多くあったのですが、先頃の大洪水でその多くが破壊されてしまいました。また、損傷して公費解体撤去された土蔵もいくつもあります。その意味では、福島の養蚕用の倉庫兼作業屋や分厚い壁の土蔵は貴重な文化遺産です。
  このような屋敷や家屋の造りは、松代以北の千曲川流域に共通するものですが、そういう建築様式が今でも残っているの集落は限られています。
  30年ほど以前には、北国街道松代道沿いには、そういう集落風景や古民家がたくさん並んでいたものですが。失われていく信州の原風景ですね。


横町集落の東端は田園の中

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