■渡し場や隣村から桝形まで■
長沼の南には柳原・村山という地区があります。昭和中期まで、ここに布野という集落がありました。往時、千曲川には橋がなく、小舟による渡し場がありました。
今、長沼上町南端の堤防には大欅記念碑が設けられた草原があって、ここは往時、長沼の渡し場があったそうです。記録によると村山の渡し、布野の渡しというものもあったそうですが、これらが同じものだったのか、それとも別のものだったのか判然としません。
あるいは、千曲川増水のたびに流路が変わって、安全な渡し場が移動したのかもしれません。
松代藩による千曲川支流の流路変作事の後、江戸時代中期には、川沿いの陸路で長沼から布野、村山を経て屋島、大豆島に通じる道も開けたようです。そうすると、その頃には南から長沼宿へ行く道としては、川船の渡しによるものと大豆島・屋島からの陸路との2通りあったことになります。もちろん、幹線は福島宿から川を渡る経路でした。【⇒長沼宿と千曲川】
いずれにせよ、往時は、上町南端の桝形を通って長沼宿に入ることになります。
では、往時の旅人の気分で長沼宿を歩いてみましょう。
桝形とは、石垣や堅固な建物の壁面などで枡のような空間をつくって、2回以上直角に曲がらないと通行できないようにする構築物・場所を意味します。⇒長沼宿南端の桝形
史料によると、上町には本陣や問屋場が軒を連らねていたようなので、この通りが長沼宿の中心部ということになります。【⇒長沼宿上町・栗田町の絵地図】
■桝形から上町通りを歩く■
桝形から北に向かって林光院まで上町通りはおよそ400メートル続いています。そこで街道は鉤の手となって右に折れて70メートルほど進むと、ふたたび鉤の手となって北に曲がります。そこからが栗田町通りです。
クランク型に鉤の手が続くのは、街道・宿駅が建設されたときには長沼が城下町だったからで、城郭の防衛構想によるものでしょう。
旧街道沿いには住宅が並んで街並み(家並み)を形成しています。
さて、江戸時代には上町通りを歩いて通りの半ばを過ぎたところの東側には、本陣を挟んで問屋が2軒あったそうです。本陣の向かいに、もう1軒問屋があったそうです。
本陣は西島家で、もとは善光寺の南方にあった栗田城領主、栗田家の子孫だと伝えられています。その北隣の問屋は西島家で、南隣の問屋は松井家、そして向かいの問屋は丸山家だったとか。⇒往時の長沼宿の面影
本陣とは、宿間街の中心となる公の宿泊施設ですが、もともとは野戦場における武将の作戦本部・指揮所を意味します。徳川幕府は軍事制度に模して街道宿駅を建設しました。街道そのものは本来、軍道として整備されたのです。【⇒参考記事】
徳川の覇権のもとで平和の時代が来ると、街道は旅客と貨物の輸送体系となって、本陣は参勤交代の旅をする藩主一行や幕府公用の旅行者――これに加えて朝廷の使者や公家など――を泊める旅館となりました。
問屋は街道沿いに貨客の運搬を継ぎ立てる輸送業務を取り仕切っていました。
原則として宿場街では、本陣と問屋が統括する宿泊サーヴィスや旅客輸送サーヴィスを提供することが納税となっていました。本陣や問屋の仕事は商業活動であって、本陣や問屋を担う家門に対して幕府から認められた身分的特権となっていました。本陣や問屋場の建物や設備の建設や修繕・改築は、そういう家門が自前でまかなうものとされていました。
*【参考資料⇒本陣主屋の部屋割り図】
*【参考資料⇒問屋の家屋の造りや部屋割り図】
彼らは集落の統治・行財政を運営する町役人・村役人――名主・庄屋とそれを補佐する年寄役と呼ばれた――で、集落内での徴税や道路補修、橋の架け替えなど公共工事の運営にあたっていました。そのため、本陣や問屋には、集落で最も富裕な名望家が指定されました。
税額というか宿場街の負担金学は、町通り側の間口の広さに比例していました。ここは農村の新開地だったので、間口の広さにそれほどの差がありません。中山道の大きな宿場街では、間口が狭く奥行きが深い――短冊形の――町家敷地割りとなっていました。
それでも、本陣や問屋は業務上の必要からして、街道に面した間口はことのほか広くなっています。当然、その分だけ宿駅の業務における財政負担(税負担)が重くなっていたのです。
ところで、この通りの街並みには長沼神社があります。もともとは諏訪大明神だったのですが、1818年(文化年間)に長沼神社に社号が改められました。上町や栗田町で農耕地の開拓がさらに進み集落が拡大したため、六地蔵町や内町との一体化が進んだため、この神社が長沼全体の鎮守として位置づけられるようになったからだと思われます。
■現在の家並み景観と歴史の痕跡■
さて、明治維新から160年近くがたち、昭和期の経済成長で住宅の改築が進み、さらに先頃の豪雨洪水で長沼の家並み景観は大きく変わってしまいました。とくに茅葺き古民家の多くは経年劣化が進んでいたため洪水が最後のとどめを刺してしまい、崩壊したものも多かったようです。
それでも、頑丈な和風の造りの古民家や土蔵はまだいくつも残っていて、修復されて保存されています。敷地の道路側に二階建ての棟が長い土蔵をつくって、入り口を長屋門にしてあります。
また、昭和後期に修築された民家は、昭和前期の和風建築様式に倣ったものが多く、広壮な二階建てで養蚕向けの造りの外観をとどめていて、文化的な価値が大きいのです。
上の写真の古民家は、大正期から昭和前期にかけての養蚕農家の建築様式と見られます。蚕室の面積を大きくするために建坪が大きく――もともとこの地区の建物は建坪が大きいのですが――、総二階の造りです。総二階とは、一階と二階が同じ床面積で同じ柱や壁で支えられている構造です。
そして、外の明るさや風を取り入れるために二階の高さが大きく、屋根には空気取り入れ口を設けて小屋根を載せてあります。蚕の育成のためには明るさと通気性の良さが必要だったからです。
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