江戸時代の中山道は、JR東海の変電所の背後の斜面から現在町役場がある高台にのぼり、前沢川を越えて富田町、八沢町にいたる道筋だったそうです。
  ところが、明治以降、鉄道や国道などの建設のために地形が大きく改造されてきました。往古の街道の経路を探り出す手がかりとなる痕跡はほとんど残っていません。今回は現在の中山道遊歩道を辿りながら、昔の地形と街道の姿を探る手がかりを探します。


◆塩淵の旧中山道を探索する◆



木曽福島駅前の風景: 左が駅舎で右が観光施設店舗。店舗の背後は段丘崖で、その縁を中山道が通っていたようだ



▲旧中山道はJR東海変電所の上の斜面を通おっていたようだ


▲変電所の脇で県道461号から山麓の遊歩道に入っていく


▲山麓の遊歩道の東脇を流れる沢の上流は滝になっている


▲200メートルほど上流で沢は階段状水路の滝となっている


▲10メートルほどの段丘崖を流れ落ちる滝沢


▲高台の裾斜面と中山道遊歩道の間には畑作地がある


▲田園風景のなかをゆく旧街道の東側に急斜面が迫る


▲旧街道から斜面の上を見上げると石塔が見える


▲一里塚跡の碑と標柱。往古、道の両側に小丘塚があった。


▲街道に迫る高台の上には鉄道と町役場庁舎がある


▲家並みから離れて、高台の上にのぼる小径に入る


▲高台の縁をのぼる細道の傾斜がきつくなっていく


▲上り坂の細道の途中で振り返り、風鐸の屋根よ見おろす


▲高台段丘崖の縁を往く細道の遊歩道。左側は崖下。


▲崖が険しいので道脇に手すり(ガード)が設置されている


▲細道の右側は製鋼会社の工場跡地で、現在は町役場


▲道筋としては、この先で右折して御岳神社に向かう


▲下の段丘にある御岳本宮神明社の境内の脇を往く遊歩道
 ご神水の前を前沢川が流れ下り、急斜面で滝となっていたようだ。本来は滝がご神水でご神体だったと見られる。


▲崖下から見ると、コンクリートで補強された人工的な滝


▲駅前に軒を連ねる観光施設・店舗は崖屋づくり


▲駅前から八沢町へと下る駅坂の道路。旧街道の痕跡はない。


▲駅坂で崖下を見おろすと市街地のショッピングモールが見える
 旧中山道は200メートル北の地蔵堂の前に降りていったらしい


▲旧中山道はこの辺りの斜面を北西向き下り、地蔵堂脇に降りたという。駅坂の下は八沢町の街道沿い商店街となる。

 江戸時代の中山道の道筋は、現在の町役場の敷地から万郡に進んで前沢川の谷間を越え、万郡を通って富田街まで降りてくるものだったそうです。⇒その道筋跡の探索記事

◆高台丘の麓を往く中山道◆

  木曽福島の中山道をたどる旅については、塩渕という地名の謂れや中島地区の地形について探索した記事を参照してください。


JR東海の鉄道用の変電設備

  現在の中山道遊歩道は、福島大橋の東袂まで降りて県道461号と合流しています。そして、JR東海の鉄道用変電所の北脇で右折して、県道から分岐して高台の麓を北に向かうことになります。
  ところが、江戸時代の中山道は、ここまで下らないで変電所の背後の斜面を通っていたと見られます。遊歩道の脇を流れる沢(小川)の左岸を通っていたのではないでしょうか。
  この沢の200メートルくらい上流は、高台から急斜面を流れ落ちる滝になっています。江戸時代には、旧中山道はこの滝沢をどのような道筋で越えていったのでしょうか。
  この滝に沿って急斜面をのぼっていくと、1979年の複線化で廃線となった単線鉄道時代の橋梁を支えた石垣の遺構を見つけました、さらにのぼると、JR中央本線の高架橋梁の下に出ます。往古の中山道も、この辺りまでのぼって沢を越えたのかもしれません。


往古の中山道は沢をどのように越えたのか


滝沢の谷を越えていく鉄道高架橋梁


橋梁の下側に残る単線時代の橋梁石垣の遺構

  さて、中山道遊歩道は滝沢を過ぎると、段丘崖斜面の下の畑作地と住宅との間を往く形になります。往古の中山道は、滝を越えてから斜面と畑作地を横切るように遊歩道の位置まで緩やかに降りてきたはずです。
  左の写真は現在の中山道遊歩道ですが、旧街道は段丘崖斜面からこの辺りに降りてきたのではないでしょうか。したがって、この写真の場所では遊歩道と旧中山道の経路は重なっているものと考えられます。
  県道沿いの市街地の繁華街とわずかに20~30メートルしか離れていない場所なのに、郊外農村ののどかな風景が続いています。そんな閑暇な風景のなか旧街道から丘の斜面を見上げると、壇上に石仏群が並んでいます。二十三夜塔や馬頭観音、勢至観音塔と並んで用水路築堤記念碑などがあります。
  さらに北に30メートル進むと、遊歩道の東脇の住宅の前に一里塚跡の標柱と石碑が立てられています。現在の住宅の敷地とその向かいには、江戸時代、高さ2~3メートル、直径5メートルくらいの盛り土の小山があって、エノキや松が植えられていたのでしょう。


旧街道を見おろす壇上に並ぶ石仏群


道脇の段差を支える石垣の上に中山道の道標

◆段丘崖斜面をのぼって高台上へ◆

  ここで、中山道と福島宿が位置する木曾福島の谷間地形を説明しておきましょう。
  木曽福島は、北東=南西方向に長さおよそ2.5キロメートル、幅およそ500メートルの舟形の底面をもつ盆地をなしています。木曾川とその支流が大地を浸食し、土砂を堆積して形成したのです。いわば大きな谷底なのです。
  盆地尾の西側には城山の尾根が壁のように立ちはだかっていて、木曾川右岸は急斜面でほとんど平坦地がありません。木曾川は西側の端に近いところを南西に向かって流れていきます。それと対照的に、左岸は八沢川や前沢川などの河川が木曾川に注ぎ込んでいて、複合的な扇状地を形成しています。
  盆地の北部には、木曾川と八沢川に挟まれる形で、火燃山ひとぼしやまの尾根が西に張り出して木曾川河畔近くまで舌状台地(高台)を形成しています。江戸時代の宿場街は、この舌状丘陵につくられました


道の西側には市街地の家並みが迫る
坂道から市街の家並みを眺める

  八沢川の渓谷から南側には、東から西に広がる扇状(イチョウの葉の形)の高台丘陵が広がっています。谷間から流れ出る沢がつくった扇状地で、扇端が5~8メートルくらいの高低差の段丘崖をなして中島地区を見おろしています。
  この扇状地は、イオンモールの東側で八沢川がつくった扇状地と融合しています。1920年代まで、八沢川の木曾川への注ぎ口から200メートルくらいのところで本流から分かれた分流が、高台丘陵の縁を削りながら流れていました。木曽福島駅と町役場との間にある高台の凹みは、この分流が侵食してつくりました。
  この分流は塩渕と呼ばれていたようですが、新市街建設の計画によって1930年代には埋め立てられて、中洲だった中島が台地上の旧市街地と「地続き」になりました。⇒鳥観図
  旧中山道は、扇端のような形の段丘崖の縁を麓から高台上までたどる道筋となっています。


崖を支える擁壁の脇をのぼっていく

  さて、一里塚跡からさらに200メートルほど遊歩道を北上するところで、段丘崖斜面を横切るようにのぼっていく細道が分岐します。町役場庁舎の敷地まで標高差にして6メートル以上のぼることになります。
  高台の鉄道よりも西側にはかつては田畑や樹林が広がっていたものと思われますが、1919年に大同特殊鋼が工場用地を造成するさいにこの辺りの地形はすっかり改造され、旧中山道が通っていた樹林帯も切り開かれてなくなりました。
  その広大な工場跡地に現在、街役場庁舎が置かれています。


高台の町役場庁舎は鉄道の北側に建設された


高台にある役場敷地から市街を見おろす

  町役場の北側は、東の谷間から流れてきた前沢側が刻んだ谷間になっていて、小さな河岸段丘面となっています。そこに御岳本宮神明宮があります。
  この小さな谷間を跨ぐために鉄道も車道も高架橋梁となっていて、前沢川は暗渠になって崖縁まで流れ、そこから人工的な滝になって段丘の下に流れ落ちていきます。昭和初期までは、滝は崖斜面を塩渕(分流)に流れ落ちていたのでしょう。
  御岳神社は、本来、この滝を御神体として祀ることで発足したのではないでしょうか。
  旧中山道は、現在のJR線路を越えて東に向かい前沢川の渓谷を越えて青峰高校の南西側の馬頭観音の辺りで北西に向きを変えて駅坂の中ほどに向かったと推定できます。そして、富田町の地蔵堂の脇に下り、そこから八沢町通りに入ったようです。⇒参考記事

◆高台上から八沢川の谷間へ◆

  遊歩道は、小さな谷を越えるとJR福島駅前にいたります。駅舎前の広場は南北約100メートル、東西約20メートルで、西端は南北に連なる崖となっています。
  この崖縁に沿って観光施設や食事処の店舗が軒を連ねています。これらの店舗の造りは「崖屋(崖家)」という様式で、崖下に家屋の基礎と一階を設け、三層以上の階をその上に築いて、駅前広場に面して地上二階分の店舗に見えるようになっています。崖下の道側から見ると、四階建ての造りに見えます。


ひとつ下の段(谷間)にある神明社の社殿群

  駅舎や観光店舗街など高台上の地形は相当に大がかりに改造されてきたので、旧中山道の経路を探るのは至難の業ですが、たぶん現在の駅坂沿いの店舗の列を斜めに横切って富田町の観音堂の脇に降りていったものと推定できます。
  ここは、往時は宿場街のなかではなかったので、道幅は3尺から1間(182cm)で崖斜面の縁を通っていたものと考えられます。ただし、当時の崖の傾斜はずっとゆるやかだったはずです。というのは、1892年(明治25年)、塩渕河畔に新国道を建設したさいに、道幅を秘匿確保するために崖斜面を削って切通したため、崖の傾斜がきつくなったと見られるからです。

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