木曾福島は、古代から交通の要衝だった木曾谷のほぼ中央に位置していて、この地方の集落は長い歴史をもっています。山深い木曾には良質の木材など山林資源――城砦築城に用いられる戦略物資――も豊かです。とりわけ戦国時代には、天下の覇権をめぐる争いで戦略的な鍵となる位置を占めていました。
木曾福島の風景:この先の谷底を木曾川が流れ、その向こうに段丘が横たわる▲
深い峡谷を削り出した木曾川(南木曽町)▲
『続日本紀』には、702年(大宝2年)に岐蘇山道が、713年(和銅6年)に吉蘇路が開通したと記されています。古代官道の東山道(岐蘇山道)は、木曾谷を通らず、美濃から神坂峠を越えて伊那谷へ抜けるルートだったといいます。神坂峠は険路ですが、ひとたび伊那谷に出れば、信濃の中央部(松本、塩尻、諏訪)への連絡が容易だったからでしょう。
木曾川上流部の木曾谷――馬籠から藪原まで――は、古代大和王権が地方統治のために築いた国郡制では美濃国と信濃国との境界辺境にあって、当初は美濃国恵那郡に属していたようですが、国司のあいだで信濃国と帰属がしばしば争われました。領地争いは、鎌倉時代、室町時代、さらに戦国時代まで繰り返されました。
木曽町では平安時代、農耕地や農村の開発が進み、大吉祖荘、小木曽荘、遠山荘といった荘園が点在していました。平安時代末期には木曾谷から源氏の遺児である源義仲(木曾義仲)が挙兵して平氏打破の先陣を切り、南北朝時代になると義仲の後裔を名乗る木曾氏が国人領主として長く当地を支配しました。
木曾谷は国境の辺境にあったたため、その統治者は周囲の勢力均衡の錘の揺れにともなって振り子のように目まぐるしく立場を取り換えてきました。生き残りのために涙ぐましい努力を重ねてきたとも言えますが。
木曾氏は1533年(天文2年)から、領地統治のため、後の中山道(木曾路)の原型となる軍道=街道整備をおこない、洗馬宿から馬籠宿までの宿駅を成立させたといわれています。険しい山岳に囲まれた峡谷各地の集落を結びつける道を築けば、域内の一体性を保つことは容易で、外部からの侵攻を防ぎやすかったのでしょう。
木曾氏は天文から弘治年間に(1532〜1558年)かけて、福島城を拠点として木曾谷に統治圏域を広げ領地経営をおこないましたが、戦国時代に入ると武田信玄の木曾侵攻を受けて武田家に臣従し、嫡子義昌と信玄の娘真理姫とを婚姻させ、武田家一族衆に加わり立場を確立しました。
ところが、1575年(天正3年)武田勝頼が長篠の戦で織田信長に敗れると、当主木曽義昌は1582年(天正10年)にいち早く織田家に与し、これが織田軍の信濃攻めの経路を用意して、武田家滅亡につながる大きな原因となりました。その後、木曾家は旧領安堵のうえに安曇郡と筑摩郡も与えられ、松本城(当時の深志城)の城主にもなっています。
▲山村代官屋敷跡(平山城の結構)。門と土塀は近年築かれたもの。
▲木曾福島本町上の段の丘上から市街地の彼方に中央アルプスを望む
しかし、本能寺の変で織田信長が倒れると織田軍の諸将は自領に撤退したため、越後の上杉景勝が南下し松本城も落城、義昌も木曾まで退き、徳川家に与して上杉家、小笠原家と対峙することになりました。1584年(天正12年)には小牧・長久手の戦いで、天下の覇者になった豊臣秀吉に与して徳川家と対立しました。ところが、和睦後に徳川家に臣従し、その後、家康にしたがって上総国阿知戸(現在の千葉県旭市)1万石に移封されました。
その後、木曾氏は一族の内紛で改易となるのですが、その家臣だった山村氏は、関ケ原の戦いの際に木曾路で先陣を務め、徳川秀忠の進軍を手助けした功で木曾を支配する代官となります。
1615年(慶長20年)の大坂の陣で豊臣家滅亡後には、木曾谷は尾張藩領となり山村氏は尾張藩家臣(尾張藩の支藩のような格付け)として扱われ――ただし幕府に対して中山道木曾路の経営について引き続いて直接報告義務を担う――、引き続き代官職を歴任することになりました。
山村氏が率いる代官所が置かれたのが福島宿で、木曾谷随一の軍事的要衝であることから関所と一帯の統治行政を担う役所が置かれ、その一帯には山村家の城下町のような位置づけで集落が発展しました。代官屋敷は城郭のような規模と体裁を備えていたそうです。また、福島の周りには、過去の統治や戦の拠点となった城砦の遺構廃墟がいくつも残されています。
八沢川に架かる中八沢橋を渡ると、中山道はふたたび直角に右折して西進する
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