集落の入り口は今井家の針葉樹並木
■今井家茶屋本陣跡■
今井家が営んだ今井の御小休所は茶屋本陣と呼ばれます。本陣とは、戦国時代の野戦における武将の指揮所を意味しますが、幕藩体制下では宿駅で大名や公家、幕府の高官に飲食や宿泊のサーヴィスを提供する施設を意味しました。今井家の御小休所もまた参覲旅の藩主や勅使としての公家、幕府公用の上級役人(大名クラス)に飲食や休泊場所を提供しました。
門の向こう側が貴賓客用の妻入玄関
要するに賓客を迎える館で、身分制秩序のもとで貴人をもてなす格式を備えていたわけです。主屋は本棟造りで、東西およそ20メートル、南北およそ12メートルで、一階だけで76坪以上はある重厚な建物です。屋敷地は南北・東西それぞれ90メートル以上もある広さ(2500坪以上)で、往時は美しい和風庭園がありました。薬医門を入ると左側に小さな高麗門があって、その奥の切妻破風の下が貴賓客用の玄関となっています。その奥が御殿(賓客の間)だったのでしょう。
敷地内にはかつては土蔵数棟、使用人長屋、厩舎などが並んでいたはずですが、今は残っていません。
屋敷の背後には、おそらくは今井家所有の山林に続く村内の広大な樹林があります。村落内の区画だけでも東西500メートル、南北400メートルはあります。主に杉とサワラ(ヒノキ)からなる樹林で、屋敷裏の通用門から使用人たちが直接山林の管理のために出入りできるようになっていたようです。
この今井家の屋敷裏の樹林には、雌雄の大桂があって、雌樹は推定樹齢400年以上、雄樹は樹齢が200年以上の古木だそうです。
大桂のうち雄樹で、胸高の幹周り3.19メートル
屋敷裏の通用門は森林への入り口
屋敷がこれだけ格式が高い結構だと、土間で一般の旅人に茶屋を営むというわけにはいかなかったでしょう。旧庶民に飲食をもてなす店舗は、街道沿いに並ぶ家並みのなかにあったのでしょう。
■穀留番所の陣屋跡■
今井家茶屋本陣跡と中山道を挟んで斜向かいは番所跡で、今では本棟造りの古民家があります。ここには諏訪高島藩の穀留番所(陣屋)が置かれていたそうです。穀留番所とは、食糧となる米などの主穀や雑穀の藩外への輸送を規制し、塩などの搬入を監視し関銭(関税)を課した役所です。
江戸時代は幕藩体制の時代でしたから、経済活動と物流は藩領国ごとに番所・関所などの障壁(検問所)によって政治的に分割されていました。ことに米などの主穀や雑穀は食糧で貢納の素材だったので、庶民による搬出・搬入は規制されていました。そのための監視統制機関が穀留番所でした。塩尻峠へののぼり口である今井にも、番所が置かれていました。
⇒番所に関する参考記事
番所跡の前庭と仕切り門と塀
諏訪湖畔の盆地からは信州各地に連絡する道が発していたので、享保年間には今井のほかに餅屋村(和田峠越え)、蔦木村(甲州道)、三沢村と有賀村(辰野・伊那方面)、神宮司村(杖突峠・高遠方面)、湯川村(霧ケ峰・大門峠)の7か所にあったそうです。この7つの経路は「諏訪七口」と呼ばれていました。
穀物に対する監視や規制が厳しくなるのは、毎年、秋の米の収穫から晩冬までの期間だったそうです。とはいえ、籾殻米や豆類は保存がきくので、収穫季後だけでなく、一年中検問はおこなわれたのかもしれません。
番所では藩による穀物搬送の監視のほか、幕府から指示された通行手形改めや人別改めもおこなったようです。その意味では口留番所としての役割もあったようです。中山道塩尻峠を仕事場にする馬方や牛方などは業務用の鑑札手形を常時携帯していて、番所の検問で提示しました。
■街道沿いの家並み■
番所跡の近隣には低いシルエットの本棟造り古民家がいくつも残っています。その多くに今井という表札があります。村落と同じ名前なので、この集落の最有力な家門(名望家)ということなのでしょう。
茶屋本陣や番所の陣屋があったこの近隣は今井村の中枢部だったのでしょう。施設が集落の西側に偏っているのは、塩尻峠に向かう旅人を送迎するためであり、また松本藩領との境界に近く外部との往来が頻多な地点に検問施設を置くためでしょう。広い屋敷地と広壮な主屋や土蔵、店舗家屋であったと見られる古民家が集まっています。しかし、その多くが今は無住で、建物は荒廃が進んでいます。歴史的景観はしだいに失われていくようです。
番所跡から東に進むと、街道の北脇に消防分団基地と火の見櫓遺構があります。その道脇に道祖神が祀られていて、木製の小さな御柱4本に囲まれています。岡谷は諏訪大社のお膝元なので、屋敷神や氏神を含めてあらゆる神社が諏訪大社の威光のもとに系統化されていて、周りに御柱を建ててあります。
この辺りには古い歴史の寺院や神社、石祠などがあるので、機会をあらためて探索することにします。
御柱に囲まれた街道脇の道祖神
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