八幡宿から中山道を東に進むと、中沢川の谷底に降ります。そこからのぼる坂の上にあるのが浅科下原の集落です。五郎兵衛用水が整備された17世紀半ば頃までに形成された村落です。 八幡宿から御馬寄に向かう中間点で、丘陵の背(頂部)に位置する集落です。昭和期の耕地整備・整理で古い時代にあった地形や道はすっかりなくなってしまいましたが、集落を歩いて往古を偲ぶ史跡や痕跡を探索しましょう。 ◆17世紀の中山道の道筋にできた集落か◆ |
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中沢川の谷間から旧中山道に沿ってのぼると、丘の頂部に家並みが見えてくる。これが浅科下原の集落だ。 |
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▲上原集落の東の端、中山道の南脇に並ぶ御井大神碑と石仏。 石神の背後には分水堰があったらしい。 ▲下原集落の東の東端尾草地に並ぶ双体道祖神や石仏 背後の流造の石祠は水神社だと見られる ▲中山道脇に立つ生井大神碑と石仏。生井とは御井のことらしい。 ▲集落内にある石祠の塚と自然石の馬頭観音(御井大神碑の南に位置する) 塚の頂上に置かれた石祠は水神社ではないだろうか ▲一般の用水路よりも高い位置に設けられたステンレス製の用水樋 五郎兵衛用水は低地から微高地を越えて給水するために、このような立体的な用水路を施して勾配を調整したという。 ▲昭和前期の豊かな農村の面影を残す家並み ▲水田地帯からの下原集落の眺め。背景は浅間連峰 この草地には角礫凝灰岩などの火山岩が集積している。土地改良や圃場整備のさいに集められたのかもしれない。 ▲水田地帯よりも高い微高地に家々が密集する村落がつくられている |
◆八幡と塩名田を結ぶ近道が通る村◆
武田家滅亡で佐久地方に徳川家に権力がおよんだ1580年代には初期中山道が建設され始めていたようです。その頃の街道は、重く歩きにくい泥土地帯を北に迂回して御牧原の山麓の桑山村を通っていたそうです。その頃の街道の塩名田から八幡までの道のりは、のちに建設された下原を通る新しい中山道に比べて2倍にもなったのだとか。 ◆景観と地形は変わったけれど◆ いま浅科地区には、形が整った広大な水田地帯が続いています。これは主に昭和期から圃場整備が進められたからで、そこにはかつての田園の姿や地形は見られなくなりました。機械化された稲作には好適な環境となりましたが、歴史の探索は相当に難しくなりました。
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