耳取城(鷹取城)跡を探る
下の鳥観図と縄張図の出典は、宮坂武男『縄張図・断面図・鳥観図で見る 信濃の山城と館』第11巻(2012年刊)です。
塩名田宿から小諸道を北におよそ2.5キロメートル進むと、千曲川河畔の段丘崖上に耳取城(鷹取城)跡があります。鎌倉時代前期に佐久平西端の耳取に勢力を拡大した大井氏の一族が、室町時代に構築しと推定される城砦跡です。
西には御牧原台地高原が迫っていて、そこには古代から大和王権に馬を貢納する官牧がありました。耳取は高原牧場の麓で北に小諸、南東に岩村田と連絡する要衝です。耳取の高台は、西方に御牧原台地の南麓には八幡から望月にいたる一帯を展望し、南方に塩名田から御馬寄方面を見通す戦略的に重要な管制高地をなしています。
耳取は浅間山麓の広大な複合扇状地の南部にあって、城砦の北端から東の延びる段丘崖にはいくつもの河川水源があって、推理資源を確保し水田を開拓するためには大いに適した地形環境にあります。中世の城下街の建設にも好適な場所です。
城砦は、河岸段丘の高台と田切地形の高台を利用した難攻不落ともいえる地形環境にあるのです。
昭和期以降の道路や住宅地の建設造成で、この一帯の地形は大きく改変されてしまいました。家臣団の集落を含む城郭縄張りの跡・遺構は容易に探索できなくなっていますが、それでも縄張の南端にあった領主館の跡地がそのまま有力な禅刹、玄江院の境内となっていて、往古の姿を探る痕跡を残しています。
玄江院から約1キロメートル南の小諸道遺構沿い、小河川の河岸段丘崖(五領の丘)には鎌倉時代前期の城館と砦の跡があって、大井一族が長い時間をかけてこの地域を開拓地統治した歴史を偲ぶことができます。