▲茅葺造りの頃の本堂(出典:『長沼村史』)
その後、鎌倉初期には幕府から毛野村の寺領を安堵され、やがて臨済宗の寺院となったたと言われています。しかし、その後、寺運は衰微したのですが、1493年(明応2年)上野国長源寺の4世天英祥貞が中興開山となり、曹洞宗の禅師として再建されたということです。とはいえ、天英祥貞については伝説化していて多くの逸話があるので、検証が必要でしょう。
戦国時代後期の1580年(天正年間)、当時の長沼城主(武田家の武将)の招きにより津野の現在地に遷移したようです。ここまでの来歴については、諸説があって、それぞれに検証された事実と齟齬があるようです。たとえば、中興開山は天英祥貞ではなくその弟子だったとか、長沼への招聘の年代には武田家支配であったぬにもかかわらず、招いたのが村上家だとか島津家だとか・・・。
そのなかで、1493年頃の天英祥貞またはその弟子による中興開山と1580年頃の長沼への移転については、確かなことだと推定できそうです。
天英祥貞といえば、15世紀後半に弟子たちとともに信州各地の衰微した寺院を曹洞宗の禅寺として復興したいくつかの事績があるようです。典型的なのは、佐久岩村田の龍雲寺の復興です。また、武田家は信濃攻めにさいして、拡大した支配地で統治政策として臨済宗の禅寺を曹洞宗に改めたり、曹洞宗の禅寺を創設したりしました。
そのような文脈では、15世紀末の曹洞宗としての中興開山、16世紀末葉の長沼遷移は歴史の流れに沿っていると思われます。
▲本堂内部の様子
玅笑寺の本尊は準堤(准胝)観世音だということですが、この観音菩薩は女性で釈迦の母親だとも言われているとか。この観世音像は、源頼朝の伯母にあたる鳥羽院美濃局の守本尊であっと伝えられています。それを1787年(天明年間)、この寺の住持だった瑞巌が祀り、供奉したのだそうです。
▲右端は修行旅の禅僧をもてなす宿泊施設か
ところで、この寺は先年の洪水で大きな被害を受けました。破堤か所から出た本流は南北に分かれたため、濁流が境内と堂宇に押し寄せたのです。
それでも多くの堂宇は相当の被害を受けながらも、宮大工が建造した堂宇は堅固で、基本構造は保ったようですとはいえ、長屋門の山門は大きく傾いてしまいました。
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