▲茅葺造りの頃の本堂(出典:『長沼村史』)
上記のように、正覚寺は鎌倉時代に西方の若槻東条の丘陵地に創建されたのですが、16世紀中葉(永禄年間)に兵火を避けるために、越後長岡に移転しました。武田信玄の信濃攻めが始まると、もともの地頭領主たちの騒乱が頻発していた北信濃にさらに戦乱が広がったからです。
その後、徳川家の覇権が固まってきて戦火が静まった元和年間(1620年前後)には、長岡に寺を残したまま、長沼津野村に別院を移しました。由緒ある陣なので、徳川家康が長沼の鎮護寺のひとつとして招き、境内・領地を与えたとも伝えられています。
住職によれば、今でも長岡に正覚寺が続いているが、もう長く行き来はないということでした。
さて、その時代といえば、佐久間家が長沼藩主として入封してきたばかりの頃で、長沼城の構築と藩政確立に努めていた時代です。外堀の北西の隅に境内を保有する正寺は、長沼から善光寺に向かう往還の脇にあって、城外で防御の要衝となる位置にありました【⇒長沼城縄張り復元図参照】。
▲本堂向拝軒下の扁額
長沼には、玅笑寺や西厳寺など格式の高い寺院がすでにありましたが、正覚寺も高い格式をもって長岡から迎えられたのでしょう。松代道長沼宿も建設途上で、宿場街も城下町も、周囲の農村集落も勢いよく成長している時期で、多くの信徒の期待を集めたものと見られます。
境内には、太子堂があります。聖徳太子の木像が安置されてきたそうです。この太子像は、上高井井上の角張家の寄贈によるものだと伝えられています。仏門に関連して角張家といえば、法然上人の高弟で、鎌倉前期に井上で浄蓮寺を開基した入道成阿弥陀仏が有名です。その家門に連なる人物が太子像をつくらせたのでしょうか。
ところで、俳人、小林一茶は長沼に何度も――なんと69回におよぶとか――訪れて、自ら長沼の風趣を楽しみながら、多くの俳人を育成しました。一茶が長沼に滞在した日数は、のべ660日を超えるといいます。というのも、長沼藩は、北国街道松代道を開削しながら、長沼から豊野・牟礼を経て信濃町におよぶ地帯の農耕地と集落を拓いたので、一茶が住む柏原から長沼には比較的に楽な旅で訪れることができたからです。
そして、長沼での主要な停泊地がこの正覚寺でした。長沼には数多くの一茶の門人がいて、この寺を拠点に句会や俳諧の集まりが頻繁に催されました。当時の住職若槻二休は、「長沼十哲」と呼ばれる高弟でした。二休の代表的な句を紹介しましょう。
日の漏れて 蟻の目につく 夏木立…(「木槿集」所収)
盆の月 緑のせんだく したりけり…(「随斎筆記」)
そういう縁で、正覚寺には小林一茶に関する貴重が史料がたくさん残されています。今では、市の博物館に預託されているようですが。
▲晩冬の陽射しを受ける太子堂
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境内内の石畳の参道: 本堂前までまっすぐ続く
左手は、聖徳太子の木像が納められている太子堂
壮麗で重厚な造りの庫裏: 現在は修復工事中
30~40年ほど前に改築された本堂: 洪水に被害を受けている
本堂南側の藤棚や樹林: 背後は墓苑
裏手の墓苑からの本堂の眺め: 美しい入母屋造り
本堂前からの境内・参道の眺め
門柱の脇から境内を眺める |