宮の宿の街並みは明治16年(1883年)の大火であらかた焼失したそうですが、大名や幕府高官など賓客の御殿(客殿)は焼失を免れたようです。本陣の主屋居住棟と客殿とは庭園の樹林帯を挟んでいたため、それがが防火帯となったおかげだそうです。
  明治維新の後、統治の仕組みとしては宿駅制度は解体され本陣・脇本陣職などはなくなり、中山道の多くの宿場では、幕藩体制の遺物と見られたうえに維持に大きな費用がかかる本陣などの建物は解体売却や破却の対象となったため、ほとんどは失われてしまいました。


◆やや小ぶりな客殿◆

 
大名などの賓客用の薬医門: 当時は杮葺きか茅葺屋根だったと見られる。村上家の正門は別(石碑の右側)にあった。



▲御殿(客殿)の表門(薬医門形式)。一般の人は通れなかった。


▲御殿の玄関側はこうなっている


▲御殿玄関脇から主屋跡を眺める


▲北東から見た御殿の様子。窓はもう2つくらいあったか。


▲南側からの御殿の様子


▲本殿の背後には広大な庭園樹林があった


▲玄関前、池のある和風庭園があったらしい


▲主屋側の通用門は跡形もない。池と水車小屋だけがある。
江戸時代には街道のこちら側には、宿場用水と池、前庭の植栽からなる幅1間くらいの緑地帯が中町まで続いていたようだ。


池の背景に徳音寺本堂が控えている立地

◆信州の中山道では3棟だけ現存◆

  信州の旧中山道ではの宿場で、往時の本陣の建物で現在に残っているものはきわめて稀で貴重な文化財といえます。本陣の建物が残っているのは、宮ノ越宿の本陣客殿棟、和田宿の本陣の主屋居住棟、下ノ諏訪宿の本陣岩波の御殿棟のわずかに3棟だけです。
  和田宿の本陣主屋は、明治時代から村役場として解体移築された建物が、現在地に復元されたものです。福島宿では寄棟瓦葺きに改築されて郡役所となり、やがて焼失しました。
  本陣を営んだ家門はいわば村長・町長に当たる地位を保有していました。古い統治行政の庁舎としての本陣主屋は、一般に幕藩体制の遺物への風当たりが強く、多くは破却されました。が、その実情は、維持費用がかさむため上等な木材を用いていた主屋や御殿を解体して木材を売り払ったり、改修して村役場や事業団体の建物として利用したりし、やがて老朽化とともに壊されたり、火災で焼失したりという形で失われていきました。

◆宮ノ越本陣の建物◆

  宮ノ越では宿駅の本陣職は村上家――投手は弥右衛門を襲名――が代々歴任し、宿駅の問屋場も兼ねていました。火災による焼失をかろうじて免れた客殿は残されましたが、その後住宅および事業用建物として改修され、村上家がこの地から転出すると荒廃していきました。
  昭和後期まで古い家屋を文化財や歴史遺産として扱われることはなかったのです。現存の客殿遺構としての建物は、近年になって――玄関付近や上客間の書院づくりの再現など――修築復元されたものです。

  1843年(天保14年)に描かれた図面によると、宮ノ越宿の本陣は、間口19間(約35m)、奥行18間(約33m)という広大な敷地のなかに集落統治のための職務や宿泊サーヴィス用に用いる主屋居住棟と御殿(客殿)のほか、厩舎や多くの土蔵などがありました。参覲大名のためには客殿のほかに厩や武器庫、藩主の荷物のための土蔵などが何棟も並んでいました。藩主によってには専用の寝具や風呂桶、什器を携行する場合もあったそうです。
  御殿棟には、式台付きの玄関や18畳の大広間、上段の間があり、格式の高い表門(高麗門または薬医門)が付随していました。参覲旅の藩主たちは表門から直接、御殿の玄関に通りました。
  宮ノ越宿駅では、本陣村上家は脇本陣とともに問屋を兼務していたので、主屋棟には上記のほかに、荷駄輸送の継立て業務をおこなう問屋場と人馬会所が置かれていました。

◆広大な屋敷林・庭園◆

  明治時代の宮ノ越宿の姿を写したと見られる写真では、本陣の辺りに広大な屋敷林があったことがわかります。
  大名や幕府の高官が宿泊する御殿の背後(東側)には端正に手入れされた庭園と樹林があったものと見られます。その緑地帯が明治に大火のさいの防火帯となって、客殿が消失を免れたそうです。
  今でも客殿の背後に広大な草地と叢林となっています。往時、庭園の背後の樹林帯は、背後の丘の上の水田畑作地帯や山裾の森まで続いていたのではないでしょうか。

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