◆主屋(住居棟)の様子◆
現存の本陣主屋は、1861年の大火の後に再建されたもので、それ以前の建築とは少し異なるようです。
そして本陣の敷地も江戸時代の半分ほどに小さくなっています。現在、本陣の南脇を通る県道178号を含めて15メートルほど南まで、本陣の敷地だったのです。そこに座敷棟(御殿)がありました。
したがって、その間口の広大な敷地に、街道と並行して南北に居住棟と座敷棟が並んでいたわけです。
【⇒本陣主屋の部屋割り図】
▲大戸口(勝手口)のなかは土間と台所
▲裏口から眺めた勝手・台所と土間
主屋は本陣の家族と使用人が生活し、また貴人の宿泊・休憩のためのサーヴィスを準備するための建物です。
それでも宿場町の最高位の役職者が暮らし、町の行政運営を指揮する官舎でもあるので、重厚で手をかけた造りになっています。
▲勝手の囲炉裏
◆宿駅役職者の仕事◆
五街道の宿駅制度の仕組みと宿役人の職務についてのあらましは、「中山道をめぐる旅 街道と宿駅」ならびに「奈良井まちあるき 歴史探訪編」で説明したとおりです。
ここでは穀倉地帯の農村集落としての和田の実情に即して、宿場の行政や経済運営について考えてみましょう。
宿駅はたいていが幕府直轄地(天領)でしたが、その統制が複雑多岐であるため、木曾のように日常事項については御三家尾張徳川家の所領としてその宰領にまかせるところもありました。
天領であった和田宿は幕府の代官が統治していましたが、日常の行政や宿運営については宿役人としての本陣・問屋・脇本陣――とそれを補佐する年寄衆――が担っていました。そして、水田などの農耕が盛んな和田庄は農村集落でもあったため、名主(庄屋)、組頭、長百姓などという村方の統治行政の仕組みと重なっていました。
宿役人の主要な任務は、幕府の統制のもとで、宿泊・休憩施設としての本陣と街道輸送の継立業務をおこなう問屋という2つの業務を経営管理・運用することでした。この経営にはかなりの資産・資金が必要なので、宿役人には村の富裕な有力者である村方役人が任命されました。
したがって彼らは、一方で街道・宿駅の運営と、他方で幕府の統治秩序に住民を従わせるともに農村住民の要望を代官などの上級機関に訴願する行政運営を同時に担っていたのです。
和田庄の村方役人としては、長井家、翠川家、羽田家が名主で、宿駅本陣(駅長)は長井、脇本陣を翠川と羽田が務めていました。
ところが、17世紀後半には、街道の物流と経済活動が急速に拡大したため、長井家は本陣の経営と問屋としての宿駅輸送継立業務とを分離し、問屋業務を分家に専属させました。
◆本陣の役割◆
ところで、和田宿本陣は火災で失われた後、将軍家に降嫁する皇女和宮の江戸下向のために急きょ再建されましたが、そういう事情のため、再建された居住棟と座敷棟は以前よりも広くて上等な建物になったようです。
そのため、中山道のどこの本陣よりも立派で重厚な造りになっているような気がします。
さて、本陣の座敷棟は御殿と呼ばれるように、迎賓用の建物で、参覲道中の各藩主や公家、幕府の高官を休養させ泊める場所です。
参覲道中の大名たちは、その石高や格式に応じて多数の家臣や従者を引き連れていました。その大名行列は、長槍隊を先頭に鉄砲隊、弓隊、騎馬隊、藩主の什器や衣類、生活用具を入れた長持ちや箱を運ぶ従者などが隊列をなしていました。
宿駅はこれらの人員を受け入れ、宿泊ないし休養させなけれななりません。藩主は本陣御殿に、家老などの重臣たちは脇本陣に宿泊し、ほかの家臣や従者たちは一般の旅籠に分宿させました。
しかし、たとえば尾張藩の出府行列や加賀前田藩の行列は3000~5000人、またはそれ以上の人員数になることもあり、和田宿ないし和田庄(刈宿、久保、原)だけでは受け入れきれない場合には、その先の下和田や青原、長久保宿やさらに近隣の依田窪古町などにも宿泊者を割り振りました。
しかも本陣には、藩主の用馬を世話する厩舎や槍や鉄砲など家臣の武器を保管するする武器庫、そのほかの荷物を入れる蔵も設けられていました。
▲二階にのぼる階段 : 納戸抽斗を積み上げた形。
▲二階には、漆塗りの高級なものから庶民が乗るものまで4種類の駕籠が置かれている
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