山門と土塀の構えは分厚い防備を思わせる
扁額の山号「望月山」が独特の形で衝撃的
望月家は、海野家、根津家とともに滋野氏の有力家門のひとつでした。そのため、望月氏の『代々旧記』には家名が滋野と表記されることもあって、系譜を読み解くのが難しく混乱しそうです。
ところで、望月家の本家嫡流、昌頼は、1544年に武田勢との戦闘に敗れて城を明け渡して逃避し、出家後に行方不明となりました。昌頼の実弟の信雅が武田家に降り、望月家を継いだけれども、武田信玄の実弟、信繁の子息を本家の後継者としたため、実質的な望月家本家の嫡流はここで絶えているようです。
武田家滅亡後に織田家による望月一族に対する処断がことのほか厳しかったのは、武田家の血筋が望月本家を継いでいたからでしょう。しかし、望月一族は各地に散ったために、本家の家門は絶えたものの、末裔が各地で生き延び、なかには徳川幕府の有力家臣となった家門もあったようです。
さて時代を遡って、室町後期の1471年(文明年間)、望月家当主、対馬守滋野盛世は父君の菩提を弔うために、甲斐(現北杜市)の曹洞宗朝陽山清光寺の末として城光院を創建したそうです。その21年後、御牧原台地の南端の百沢入口山根に堂塔伽藍を建立し、寺院としての体裁を整え、南哺浦禅師によって開山されました。
城光院の開創から100年後、武田家の勢力が最大規模になったときに、この寺は望月氏の居館跡の現在地に移転したと伝えられています。おそらく、鹿曲川河畔の平坦地に多くの農民集落と農耕地が開かれたために、城砦の仕組みや、領主の所領統治の方式が転換したためだと見られます。
堂舎も屋根も六角形なので経堂か?
1571年にここに城光院が移されたということは、武田家による信濃統治の全盛期には望月氏の居館にはなくなっていたということです。そうるすると、望月氏の所領統治の構造はどうなっていたのでしょうか。
信濃の有力領主、望月氏の居館があったという城光院の境内は、山裾であるにもかかわらず広大です。そう感じるのは、今は堂塔伽藍がすくないからでしょうか。江戸時代には堂宇が林立していたのでしょうか。その分、提案や樹林が開放的です。
その境内には、史跡ともいうべき石像や石仏、石塔、神社の社殿や祠があちらこちらに分散しています。まず北西側には、標柱があって庚申塔だと案内していますが、草叢に倒れ伏している石柱のことでしょうか。隣には石仏の列が続いています。宝珠を提げている像があるので、観音菩薩でしょうか。
2つの門の中間に稲荷社の石祠が祀られている
近くには、蓋殿におおわれた社殿(一間流造り)がありますが、残念ながら、どういう神社なのかわかりません。そこから本堂寄りには六角形の屋根と堂舎の小さな建物があります。形からして経堂と見受けられますが、これにも何の標示もなく、どういうものか不明です。これらはそれなりの文化財なのに、もったいないことです。
城光院の境内はその西端が道路に面していて、北側に山門が置かれ、そこから20メートルほど南にもうひとつ簡素な造りの門があります。この2つの門の間に、稲荷社の石祠が祀られています。
その奥、鐘楼の奥の本堂寄りに有形文化財の十王像が並んでいます。
十王信仰とは、仏教発祥の地、古代インドの他界観――死への旅立ちのイメージ――を起源とし、それが中国に伝来して道教などと習合して、唐代晩期の頃に成立した死後の世界の歴程観です。その後、平安時代に日本に伝わり、死後に霊魂がたどる過程=世界という概念が、人びとの宗教観にもち込まれたものだとか。
具体的には、人は死後、冥界をたどりながら10人の王によって生前の行いを審判されるということで、あの閻魔王は5番目の審判者です。
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