本文へスキップ
長野県佐久市望月
 
 
創建開基は謎のまま


▲鹿曲川河畔の小径から信永院を眺める: 山裾の高台に端正なたたずまいを見せている

  金峰山信永院は、1532年に望月左衛門尉信永が開基したと伝えられていますが、信永は1551年の誕生で時期が合いません。おそらく、開基の年月が誤っている(40年ほど後代)か、寺伝のとおり荘山道厳禅師の開山ではあるものの、望月家の別の武将による開基と思われます。信永院は、上野国多胡群神保村の仁叟寺の末寺だそうです。
  開山当初の場所は、鹿曲川河畔、蟠龍窟弁天堂の対岸、望月橋の西袂南側から上流部にかけての一帯だそうです。現在、そこには墓地や石仏群があります。


▲本堂の西側手前には銘木、かやの老木がある

  寺号のもとになった望月左衛門尉信永は、武田信玄の弟、信繁の子息です。戦国時代、望月家は信濃に侵攻してきた武田家の臣従要求を撥ねつけて敵対しますが、結局敗れ、望月家当主の弟の望月信雅が武田家に降伏臣従し望月家を継承しました。信雅は、武田信繁の子息2人――信頼と信永――を養子として、信頼を望月家の継承者としました。信繁の妻、つまり兄弟の母は望月家の女性でした。
  早世した兄に代わって、信永が望月家を継承しました。ところが、1575年、長篠の戦で信永は討ち死にしました。なので、おそらく信頼が弟の菩提を弔うために、この禅刹を寺号を信永院としたものと考えるのが合理的だと見られます。そうすると、信永院の来歴由緒は謎のまま残ります。

。な
■寺の由緒を想像する■


風に揺れる大榧。ざっと数えて17本の幹が密集している


榧の根元: 幼弱なひこ生えが育てば幹は20本となる

  ところで、望月家の本家嫡流、昌頼は、1544年に武田勢との戦闘に敗れて城を明け渡して逃避し、出家後に行方不明となりました。昌頼の実弟の信雅が武田家に降り、望月家を継いだけれども、武田信玄の実弟、信繁の子息を本家の後継者としたため、実質的な望月家本家の嫡流はここで絶えているようです。もちろん、母系の血脈は続くのですが。
  望月信雅は武田家の軍門に降り家臣となります。家門の女性を武田信玄の実弟、信繁の妻として、その子息たちを望月家の後継者としたのは、家門が生き延びるための手段でした。これによって、望月家は武田家の有力家臣の列に加わりました。
  武田家滅亡後に織田家による望月一族に対する処断がことのほか厳しかったのは、武田家の血筋が望月本家を継いでいたからでしょう。しかし、傍系の望月一族は各地に散ったために、本家嫡流の家門は絶えたものの、末裔が各地で生き延び、なかには徳川幕府の有力家臣となった家門もあったようです。

  さて、由緒が謎である信永院の来歴を想像してみましょう。
  金峰山という山号は、望月家と武田家との結びつきを示すものと考えれば、甲府北端の名峰、金峰山から由来するものと考えられます。とはいえ、金峰山は修験道の祖、役小角が蔵王権現を祀って修験霊場を開いた場所で、本拠は奈良吉野郡にある神仏習合の金峰山寺です。
  そんな歴史を想起しながら、信永院が元あった場所に訪れてみました。そこは、鹿曲川を挟んで蟠龍窟弁天堂の対岸で、今は荒れた空き地とその隣の墓地霊園が混淆した不思議な場所です。古い石碑や石塔が数えきれないほど残る遺跡と見られる場所です。しかし、調査研究はされておらず、何の説明もなく放置され荒廃しています。


本堂内陣の様子

  弁天窟がある段丘崖から200メートルほど北東に離れたところに、真言宗当山派の大応院(有力な修験霊場)の廃寺跡があります。ここは往時、真言宗当山派の寺院群の筆頭で触頭役を務めていました。古代には御牧原に朝廷直轄の馬牧場(官牧)があって、官衙もあったので、望月の地に大和王権の安寧鎮護を担う大応院を中心とする真言の密教修験霊場があるのは、ごく当然のことです。
  在地の神々を尊崇する、その頃の寺院・修験霊場の寺領や境内は広大でした。してみると、真言密教の跡地が、信永院のもともとの所在地だった可能性があります。
  鎌倉時代から室町時代にかけて曹洞宗の修行僧たちが、平安時代に衰微荒廃した密教寺院を禅宗人として再興する運動が盛んにおこなわれました。信永院の前身の禅刹が、そういう古代の寺院の復興運動で再興されたものでありえるといえます。
  望月氏は、望月の牧の監を務めていた、平安時代から続く名門ですから、大応院など真言密教の寺院との結びつきがあったとか、あるいはまた、後代におけるその再興運動ともかかわりがあったと見るのは奇異な見解ではないと思います。


寺の西側の段丘下を流れる鹿曲川


信永院の背後で御牧原戸減台地の尾根が鹿曲川の畔まで迫っている▲

本堂の手前に立つ榧の大樹: 樹齢は500年以上と推定される▲

江戸時代末期に建立された本堂。寄棟屋根は茅葺だったらしい。▲

報道と庫裏との連結部の唐破風は端正で、寺の品格を示す▲

庫裏・居住棟の背後に迫る尾根(季節は初夏)▲

急斜面の山裾段丘に位置する境内の様子▲

寺の南を展望。向かいの尾根裾の対岸に寺の古い所在地がある。▲

諸堂は近年補修して、美しさを回復した(3月下旬)

南側から壇上の堂宇を眺める。まだ冬枯れの境内庭園。▲

新鋭医院への入り口: 筆塚などの石碑が並ぶ。▲
往時、信永院の僧たちが手跡指南(寺子屋)を営んでいたらしい。

◆信永院のもとの所在地探訪◆

  信永院が現在地に移る以前にあったとされる場所に訪れてみました。鹿曲川を挟んで蟠龍窟弁天堂の対岸です。
  そこは、今は墓地となっていますが、巨大な馬頭観音碑があり、ここかしこに多数の石仏や石塔などが群落をなしている、じつに不思議なな雰囲気の場所です。すごく古い寺院の跡だという感じがします。いずれにせよ、長い間、人びとの信仰のよりどころ、祈りの場となってきたことが一目でわかります。
  信永院の前身の寺院があったという言い伝えは、納得できます。対岸の蟠龍窟や西宮神社などの神域・聖域があることから、両岸におよぶ信仰の拠点があったことは確かでしょう。

  寺院など何かの史跡だと思われますが、調査研究されたわけではなさそうです。かつては誰もが知る場所だったが、しかし、長い期間、墓参や献花などはなされていないようで、今は訪れる人も絶えたという感じです。


密集隣室する墓碑は、荒廃が進んでいる




丸い石には「百万遍供養」と刻まれている▲

碑には禅の心得が刻まれているのだろうか▲

中央の変形五輪塔は武家の墓標だと思われる▲

|  前の記事に戻る  ||  次の記事に進む  |